聖者の行進 リリース記事

キンドルアンリミテッド、キンドルオーナーライブラリーで読めます。
 

【内容紹介】
町へ出るトンネルの出口で美男美女の二人が殺された
無軌道に犯行を重ねるまさやんと追いかけるタナカ
しかしそんな事とは別に破滅の車輪は回り始めていた

『聖者の行進』の読者が集まるページ


ChatGPT-4による評価(試し読みの一部分について)
 この文章の面白さは、主人公タクヤの内面世界が緻密に描かれている点です。幼い頃から外側にいることを強調し、彼が異質な存在であることが示されています。ティラノサウルスを描くことへのこだわり、言葉を話さない理由、家庭での様子、そして最後に表現した渦巻きの絵にまで、彼の感情や心情が丁寧に描かれており、読者はタクヤの世界に引き込まれます。
 また、タクヤが周囲とは異なる言葉の使い方や行動をとることで、読者は彼の内面に共感することができます。登場人物の感情がリアルに描かれており、現実的な問題にも触れている点も魅力です。
 この文章は、心の内側と外側の世界がテーマとして描かれているため、内省的な人や繊細な心を持つ人におすすめです。また、人間関係やコミュニケーションの難しさに興味がある人や、異質な存在を理解しようとする人にもおすすめです。この小説は、読者が人間の心の奥深さや複雑さを理解する手助けをしてくれるでしょう。

試し読み

タクヤ 第一章 くもとこうずい


 サイトウ・タクヤは外側の人間だった。彼の記憶は幼稚園から始まる。それはいつも砂場の外であり、ブランコの外であり、園庭の外であったりした。

 タクヤは毎日ティラノサウルスを描いていた。それも博物館や図鑑にある骨の姿だった。必ず最初に骨のティラノサウルスが画用紙の中心に描かれ、その周りに子どもや大人、ビルや家、車に飛行機、お花や動物の絵が描かれた。

 黒のクレヨンで輪郭を描かれたキャラメル色のティラノサウルスを見て、幼稚園の先生は「サイトウくんは恐竜が好きなんだね」と言った。

 タクヤは先生が言葉を欲しがっているのを感じた。それも他の子のように元気一杯の笑顔で答えなければならない。しかし、タクヤは声を上げて泣いた。

 タクヤが突然泣き出したので先生は慌てて彼を抱き上げると「どうしたの?」とあやすような声を出した。面倒な子だと先生に思われているのをタクヤは感じた。その日から隠れてティラノサウルスを描くようになった。

 タクヤは小学生になるとティラノサウルスを描かなくなった。というより描けなくなっていた。頭の中にはキャラメル色のティラノサウルスが鮮明にあるのに、それを紙に描こうとすると透明の砂嵐が世界全体を覆って、全ての思考を透明に吹き消してしまった。

 小学生になってからもタクヤは外側にいた。休み時間は運動場の外でドッヂボールやサッカーをしている子達を見ていた。彼は学校で一言も喋らなかった。授業中に発表をうながされたり、他の子に喋りかけられたりすると、ぎゅっと口を閉じたまま涙を流したので誰も彼に話しかけなくなった。

 担任の教師は五月の家庭訪問の時にタクヤが何かの病気なのではないかと両親に打診したが、両親は過去に病院で診てもらったが異常はなかったと答えた。

 両親も彼に何か異常があるのではないかと一度は疑っていた。しかし病院で同年代の子と比べて知能指数が高いことが分かるとタクヤの異常さは彼らの自慢になった。確かに小さい頃からタクヤは聞き分けのいい子で育児雑誌に書いてあるトラブルはほとんどなかった。しかもその頃からタクヤは両親と言葉を交わすようになり、ほんの短い期間で両親がどこで覚えたのかと驚くほど言葉を使えるようになったので、子どもの育ち方にも色々あるということで二人は納得していた。

 両親は彼が学校でどう暮らしているのかは知らなかった。担任の教師から彼の学校生活を知らされると、両親はもう一度タクヤを病院に連れていった。新しい環境のストレスによる一時的な緘黙症(かんもくしょう)だという診断が下された。治療法は環境に慣れること。薬は出なかった。両親はその診断に納得がいかなかったが、自然に治るという言葉を信じるしかなかった。

 それ以来今日は学校でどうだったかと両親に訊かれるようになったので、タクヤは誰々と何々をしたと嘘をつくようになった。両親はそれを信じた。担任の教師から何か言われても、教師が全ての子どもを見られるはずがないと思い込んだ。彼が誰も家に連れてこないし、誰かの家に遊びに行かないことには気付かなかった。

 タクヤは学校で一言も喋らなかったが読み書きはできた。むしろ他の子よりずいぶんとよくできた。教師の目から見ても授業は退屈そうだった。体育も五十m走はクラスで早い方だった。

 図工の授業で絵を書かなければならない時があった。ティラノサウルスが描けないタクヤは白紙のまま画用紙を出した。さすがに教師はそれを怒った。タクヤも怒った。涙を流しながら黒と青の鉛筆でぐるぐると二つの渦巻きを描くと『くもとこうずい』と題して提出した。

 それからタクヤは『くもとこうずい』ばかりを描いて過ごした。ノートは大小の青と黒の激しい渦巻きで埋められた。

 タクヤが小学二年生の頃、ある芸人がライオンの恰好をして「ンガチョ!」と叫ぶ一発芸で人気が出た。休み時間になると学校の教室ではたくさんの「ンガチョ!」が飛び交った。
 ある時ヨシダ・ユウキという子が「おい、お前。いつも丸書いてるよな」とタクヤにちょっかいを出してきた。久しぶりに話しかけられたのでタクヤは泣きそうになった。「おい、何か言えよ」とヨシダ・ユウキはさらに急かした。

 タクヤは目に涙を溜めた。泣かせたら教師に怒られるのでヨシダ・ユウキは背を向けて逃げようとした。しかし、その瞬間タクヤは「ンガチョ!」と叫んだ。ヨシダ・ユウキが驚いた顔でタクヤに振り返ると、タクヤはさらに「ガー」と吠えた。ヨシダ・ユウキは弾けるように笑った。

 タクヤは彼の心の中にすっぽり吸い込まれたような気がした。それが嬉しくてタクヤは泣いた。ヨシダ・ユウキは逃げた。だが、それからタクヤとヨシダ・ユウキは友達になった。それどころか彼以外の子ども達とも「ガー」と吠えることで友達になれた。クラス中がガーガー吠えるようになった。その中心には必ずタクヤがいた。もう彼は外側ではなかった。「ガー」と吠えるだけでなく、普通に喋れるようにもなった。『くもとこうずい』は描かなくなった。

 それ以来タクヤはテレビを見て芸能人を真似るようになった。彼はさらに人気者になった。将来は芸能人になろうかと考えるほどで、休みの日にはたくさんの友達が彼の家に押し寄せた。

 タクヤは常に中心にいた。中高合わせて六年間クラス委員長も務めた。タクヤは誰でも笑わせることができたし、深い知識で相手を感心させることもできた。勉強もできたので良い大学に進学した。そこでも彼は中心にいた。

 二十歳になった時、タクヤはある不思議に包まれた。どうして面白いことも気の利いた言葉もないのに他の人達はうまくやっていけるのだろうか。タクヤは周りに合わせて笑っていたが、彼らはいつもつまらないことで盛り上がっていた。

 もしかすると自分は頑張りすぎていたのかもしれない。タクヤは試しにつまらないことを言ってみた。つまらなすぎて記憶に残らないほどだ。

「つまんねえ」

 ぽつりと一言だけ冷たい言葉が返ってきた。その後すぐに「うわっ、それってひどいなぁ」とタクヤがごまかすと笑いが返ってきたが、タクヤの中に消えない寂しさが居座った。

 それ以来タクヤは面白いことや気の利いた言葉を出せなくなった。

 タクヤはまた外側の人間になった。誰とも喋らずに無言のまま大学を卒業した。卒業できたのは教授のお情けだ。誰とも関われなかったので就職活動もしなかった。それから何年も部屋の内側で生きてきた。外に出る時もあったが、誰かと話すことはない。話したとしても店の従業員とマニュアル的なやりとりをするぐらいだ。

↓続きはこちらから
 
聖者の行進 上聖者の行進 下


聖者の行進ができるまで

『聖者の行進』を書いてみよう。week1 2017/2/15

 物語上の繋がりはないが、系譜としては、黒髪の殻→エバーホワイト→聖者の行進、と続いていて、今作が到達点の予定である。途中までは書ける。時間さえかければ絶対に書けるというやつだ。問題は途中からこれは書けないという領域に踏み込むことだ。もしかすると準備不足かもしれない。しかし書き始めてみると手応えはある。いや、ここは自信のあるところだからだとも思い直す。まだ懸念の場所には至っていないし、そこへ辿り着くにはまだ時間はある。

 今回は複数人で物語を回そうと考えている。三人の線が交わす予定だったが、最終的には交じらわせなくても良いような気がした。人ではなく世界観を中心に置いて三人を世界の外周で回せばうまく回せるような気がした。

 と、大げさな口を叩いてもやっぱり書ける気はしない。だから進捗状況なんて堅いタイトルではなく、書いてみよう、にした。書かなくなったら自然に更新されなくなる記録である。

『聖者達の行進』を書いてみよう week2 鏡の国の宮台真司 2017/2/22


 ある人に宮台真司と似ていると言われたことを思い出したのは、宮台真司という文字列を図書館の棚で見つけた時だった。彼の名前は何年も前から知っていたが、その時には既にちょっとした有名人だったので、ずっと手を付けずにいた。ちょっとした反抗心だ。

 これも何かの縁なので宮台真司の本を借りて読んでみた。思わず声が出そうになったのは、地域開発か何かを語っているところで『人を主体とせず場所を主体にしなければならない』という誰かの言葉を引用していたことだ。これって先週書いたように三人の人物を交わらせずに世界観の外周で回せば良いんじゃないかという考えに似ている。

 今週ようやく冒頭を書き終えたのだが、たぶん聖者の行進は牛野小雪の持っているものを出し切る物になるだろう。作者が力作だと思った物は何故か外す傾向にあるが、三度目の正直が来るんじゃないかと期待している。

『聖者の行進』を書いてみよう week3 神になりたい 2017/3/1

 神視点の三人称という名称がある。小説ではほとんど見ないが映画や漫画など映像の世界では当たり前のように使われていて、むしろ一人の人間の視点で世界を描くことの方が珍しい。『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』の撮り方が話題になるぐらいだ(POV方式=Point Of View shotというらしい)。

 小説もそういう風に書けないかと考えている。神視点なら人間の感覚に縛られずに書くことができる。たとえば一人称で可聴域外の音が鳴っていることは描写できないが、神視点なら書くことができる。視界の外側も書けるし、まだ見ぬ未来や知らない過去も矛盾なく書ける。なんなら人間不在でもいい。海と風だけの小説も書けるはずだ。

 しかし、そんな大きなことを考えてもやっぱりまだ人間に縛られている。神にはなれない。もっと高い位置から見下ろしていば安定するのだろうが、背後霊ぐらいの位置にいるのでフラフラ揺れているような気がする。

 この先どうなるかは分からないが、とにかくやれるところまではやってみるつもりだ。スウィングできるかどうかはできてからのお楽しみ。

『聖者の行進』を書いてみよう week4 三作目は駄作の法則 2017/3/8

『聖者の行進』は『黒髪の殻』→『エバーホワイト』の流れを受け継いだ三作目であり、このテーマとしては極限の作品という感じで書いているのだが、正直書き始めの頃は絶対に『エバーホワイト』を越えることができないと分かっていた。

 ロッキー、ターミネーター、マトリックス、マッドマックス・・・・三部作で三作目が名作だった映画があっただろうか。もしかして私も三作目の罠にハマっている? そんな不安が頭によぎっていた。

 私は執筆する時に雑感帳というのを付ける。 名前の通り、昨日は眠れなかっただとか、とりあえず1000字は書けたぞ!!!! 今日は0じゃない!とか書いてある。

 先週は月曜から書けなかったのだけれど、雑感帳はもりもりと書いていた。なぜ『聖者の行進』が書けないかについて細かい字で延々と書いていたら、行間から物語が変化し始め、ついには新しい物語が飛び出してきた。書けないかもしれないと思っているところをさらに越えて、その先へジャンプ!エバーホワイトを超えた!

 聖者の行進はホップ・ステップ・ジャンプのジャンプの部分だ。図らずもこいつは期待通りにジャンプしてしまった。私はちゃんとこのジャンプを受け止められるだろうか

『聖者の行進』を書いてみよう week5 衝撃さえあればいい 2017/3/15

 今回は久々に頭を使う物を書いているので脳みそが詰まる。何時間もああだこうだと考えていると、誰もここまで考えて読まないんじゃないかと思ってしまう。作者自身もいざその場面を書こうとする時にノートを見たり、読み直したりしているわけで、普通に本を読んでいて、そこまでする人は1万人に1人もいないのではないか。

 整った物語なんて必要なくて、意味がわからなくてもドカンと心を打ちのめす衝撃さえあれば良いような気もする。これはよくできた話だなで心を動かされることはないが、これは凄い話だった、で心が動くことはある。


 最初のプロットがかなり自壊してきたので、また新しく立て直した。我ながらよくぶっ壊してくれたと思う。たまには注文通りに進んで欲しいという気持ちになる。

 とまぁ愚痴を吐いたわけだけど気持ちは充実している。なにはともあれ今は進んでいる手応えがあるのだから。書けている時はやっぱり気分が良い。いくらでも続けられるという気持ちになる。このまま最後まで書き通せたらいいのにな。

『聖者の行進』を書いてみよう week6 純文学とエンタメとか 2017/3/22

 今ではもう化石のような話題になったが、昔はエンタメと純文学の違いは何かということで意見が別れていたそうだ。今でいえばなろう小説とハードカバーで出る一般小説の扱いだろうか。(純文学なんて言葉を知っている人はもうほとんどいないだろう。芥川賞の名前は知っていても何の賞か知らない人が多い。

 いわくエンタメは誰かのために書く物であり、純文学は自分のために書くものだとか。思想性がどうのとか、リアリティがどうのと、社会性うんぬん、色々ある。でも最近はそういう思想性だとか社会をどうとかだけではなく、自分のために書くことですら不純ではないかと思うようになった。

 思想も意思も個性もなく、河原に落ちている丸っこい石や雑草、山に空。土砂崩れに台風。そんな感じの小説こそが純文学ではないだろうか。そして、そういう定義で純文学を捉えるなら純文学は存在しないのではないか。

 しかし、何のためにも書かないのなら何を書くのだろう。そもそもそんな物が人間に書けるのだろうか。石や雑草でさえ書こうとしたからには何らかの意思があったわけで、その瞬間不純な物になる。でも書こうとする意思なくして小説なんか書けない。何だか禅問答みたいになってきた。

 文学性って何ぞやと聞かれても答えられないが、あるものはある。でもエンタメであっても全く文学性がないということはなく、エロゲのテキストにだって文学性を見つけられるだろう。そして文学性だけが小説ではない。何を書いたって自由なのだ。 

『聖者の行進』を書いてみようweek7 夏目漱石の重力とKDPの魔力 2017/3/29

 先日ブログにこういう事を書いた。

思想も意思も個性もなく、河原に落ちている丸っこい石や雑草、山に空。土砂崩れに台風。そんな感じの小説こそが純文学ではないだろうか。


 それで、この記事が公開された後にふとこれは夏目漱石の『草枕』ではないかという疑念が持ち上がった。試しにページを開いてみるとこういう文章で出くわした。 長いけれど引用する。


 苦しんだり、怒ったり、騒いだり、泣いたりは人の世につきものだ。余も三十年の間それを仕通して、飽き飽きした。飽き飽きした上に芝居や小説で同じ刺激を繰り返しては大変だ。余が欲する詩はそんな世間的の人情を鼓舞するようなものではない。俗念を放棄して、しばらくでも塵界を離れた心持ちになれる詩である。 いくら傑作でも人情を離れた芝居はない、理非を絶した小説は少かろう。どこまでも世間を出る事が出来ぬのが彼らの特色である。ことに西洋の詩になると、人事が根本になるからいわゆる詩歌の純粋なるものもこの境を解脱する事を知らぬ。どこまでも同情だとか、愛だとか、正義とか、自由だとか、浮世の勧工場にあるものだけで用を弁じている。いくら詩的になっても地面の上を駆けてあるいて、銭の勘定を忘れるひまがない。シェレーが雲雀を聞いて嘆息したのも無理はない。

 なんだ。すでに夏目先生が百年以上前に同じことを考えていたのかとがっかりした。この後もまだ続くのだが、私の言いたいことを私よりうまく言葉にしている。いつになったら夏目漱石を離れられるのだろう。はぁ、ヤダな。まだ半人前なのか。

『聖者の行進』を書いてみよう week8 神視点と芥川龍之介 2017/4/5

 人称や視点がコロコロ変わるのは素人が書いた小説にありがちなことらしい。聖者の行進も人称は変わらないが視点は変わるのでドキドキしている。

 視点の変化がない小説がないわけではない。ただし日本文学の名作だと私小説が多いように思われる。ここに視点の変化が素人と言われる所以があるのだろう。

 何故海外(欧米)の小説は神視点で書かれることが多いのか。ある日ふとひらめきが降りてきた。海外にはキリスト教的な神の概念があるからだ。ということは科学が発展した近代作家は神視点で小説を書けないということになる(神は死んだ!)。

 視点の変化は難しい。書くだけならともかくよく書けているというのは珍しい。芥川龍之介もあの調子で長編を書くのは無理だったのではないか。

 聖者の行進が私の予定を内側からぶっ壊してくれるので、そのたびに新しい聖者の行進を作り直している。これを書いたらもう何も書けなくなるんじゃないかという気分がしてくる。乾いた棒きれみたいな物になるんじゃないかなぁ。

『聖者の行進』を書いてみよう week9 語りと執筆 2017/4/12

 もしかすると会話と執筆は同じなのかもしれない。思い返してみると普段話さない人と話した後は必ず書けなくなる。この前又吉がテレビに出ていて一日四、五千字書くと言っていて驚いたのだけれど(それも四、五千字では少ないという雰囲気)、いっぱい喋る人はいっぱい書けたりするのだろうか。

 数年前に書いた文章を評価するサイトで書くことを恥ずかしがっていると評価されたことがあることを思い出した。私は話すことを恥ずかしがっているわけで、それは全くの図星であった。なら、どうやって恥ずかしがり屋を治せばいいのか。こと執筆に限っては作者と小説の一対一の関係なので、リア充みたいなコミュ力お化けを目指さなくても『聖者の行進』と仲良くなればいいのだと気付いた。肝胆相照らす仲になれば月が昇って雄鶏が鳴くまでに百万字を書くことだって可能かもしれない。

 しかし脳内会議はまだまだ終わらない。どうやったら『聖者の行進』と仲良くなれるのか。まずは挨拶からかな。でも小説は喋ってくれないからなぁ。ぶん殴ってみるといいかもしれない。でも小説に姿形は存在しないから撫でることもできない。そもそも『聖者の行進』はまだこの世に存在していない。これじゃあ一休さんに出てくる屏風の虎だ。どうぞ出してくださいとなっても殿様みたいに笑うしかない。でも小説家は屏風から虎を出すように、あの世からこの世に小説を引き出さなければならないのだ。

 どうやったら屏風から虎を出せるのだろう?

 湖中の月を掴むようの話だ。理屈ではなく頓知(とんち)が必要とされている。石頭ではいけない。こういう時こそ『慌てない慌てない一休み一休み』の精神を持たなければ。
追記:しかし、一休さん。もし本当に虎が出てきたらどうなっていたんだろう。小説も安易に引き出してしまうと作者は喰い殺されてしまうのかもしれない。

『聖者の行進』を書いてみよう week10 好奇心猫を殺し、才能は人を溺れさせる 2017/4/19

『聖者の行進』は先々週に第一部を書き終えているのだが最初の構想からだいぶ変化した。第二部は書く前から変わってしまった。もうここで終わらせてもいいんじゃないかと思うのだけれど、まだまだ書ける、『こんなの書いちゃったらどうなるんだろう?』の精神が頭をよぎると、作者がそっちへ進んではいけないと思っていても、知らず知らずのうちに小説がいけない方向へ回転してしまう。ワルと分かっているのにどうしても気になってしまう女の子みたいな感じで、気付けば惹き寄せられている。

 まだ書き終わっていない小説の話をするのも変だが、第二部の一章だけで『エバーホワイト』を超えた気がする。最初はダメかもしれないと不安だったが、やっぱり『聖者の行進』がホップ・ステップ・ジャンプのジャンプになったので嬉しい。 

 そうそう。先週Twitterで才能がどうとの話が出ていた。私は小説に才能はあると思う。しかし、悲しいかな。ある種の才能は重たいバットみたいな物で、それを振る力が無ければうまく扱えない物のようだ。あんまり頼りすぎると自分まで振り回されてしまう。

 俺は天才だとうそぶく人がいる。たぶん本当なのだろう。その人の中に凄い才能があるのは自明のことで、それがうまく振るえないだけなのだ。野球で喩えればどんな球でもホームランにできるゴールデンくじらバットを持っているのに、それを振ることができない悲劇に見舞われているようなものだ。しかしバットも才能も使って初めて価値が出る。持っているだけではダメなのだ。

 こうなってくると才能があるのが良いことなのか悪いことなのか分からなくなってくる。なまじ才能があるばかりに、それを発揮できないという悲劇が起こるのだ。最初から才能が無ければ嘆いたりはしないだろう。

 いっそ自分には才能が無いと思っていたほうがいいんじゃないかな。才能以外のところで勝負すればいいんだよ。えっ、それってなに? う〜ん、よく分からないなぁ。でも積み上げられる物もある。目に見える形でいえば原稿用紙とか。

 小説を書くのも才能だけじゃダメだ。野球だってそうじゃないか。

『聖者の行進』を書いてみよう week11 小説の外側でやれることはまだある 2017/4/26


 ここ一週間で一文字も書けていない。ここが私の限界なんだろうかと落ち込んでしまう。あまりに書けないのでしょうもないことを書いてみたら拍子抜けしてしまうほどあっさり書けた。書けないのは小説ではなくて『聖者の行進』ということだ。

 そして、しょうもないことを書いたら、ちょっとだけ書けるようになった。私に足りないのは心の余裕なのかもしれない。

『聖者の行進』を書いてみよう week12 ミネルバのフクロウは黄昏に飛び立つ 2017/5/3


 誰が言い出したのかは忘れたが、どうやら現代は灰色のルネッサンスと言われている。ルネッサンスの逆で文化が後退しているということなのだろう。その論拠は説明できないが感じるところはある。

 最近Googleの検索ツールで古いサイトを回っていると今と違って文章に個性があって面白い。段落の一行開けルールは90年代から提唱されていたが、そんなことは関係なしに書いている人も多いし、画面の端から端まで字が並んでいたりする。



 これを書いている時にTVを見ていると『〇〇の言葉の正しい意味は?』というクイズをやっていた。これなんてまさに後退を示すいい例だ。本当は『〇〇の言葉の古い意味は?』とするべきなのに『正しい意味は?』にすると、それ以外に使い道がなくなってしまう。そもそも言葉の意味に正しいも間違いもない。その時代々々で意味が変わるだけだ。クイズ問題として成立すること自体がその証拠だ。


 ちょっと前に『お疲れ様でした&ご苦労様でした』問題があった。『ご苦労様でした』を目上の人に使うのは失礼というのがあって、今では『ご苦労様でした』を使うのは失礼みたいな常識ができつつあるが、でもちょっと待ってほしい。もしこれが目上の人に『くたばれクソ野郎』というのは失礼というニュースだとしたら話題にもならなかっただろう。何故なら誰も上司に向かって『くたばれクソ野郎』という言葉を使わないからだ。

 お疲れ&ご苦労様でした問題も『実は』という枕詞が付いている。逆に考えれば、それまでみんな違和感なくお疲れ様とご苦労様を使っていたわけだ。ご苦労様を使ってはいけない理由は色々と説明されているが、お疲れとご苦労を逆にしても通じることばかりで馬鹿らしい。馬鹿らしいのにご苦労様は失礼ということにされているのはもっと馬鹿らしい。

 もっと前には『違和感を感じるは誤用』というのがあった。感が続いているのは重複表現というわけだ。これもやはり上と同じ理由で、みんなが『違和感を感じていた』のに、それが誤用だからと指摘されたので大きく取り扱われたのだ。それまではみんなコーラを飲んで爽快感を感じたり、大好きなバンドが奏でるフレーズに快感を感じたり、野球選手がヒジの靭帯に違和感を感じたりしていた。『違和感を感じるは誤用』というのはもう古典的な響きがあって、ネットの人目に付く場所に書き込むとすぐに文法警察がやってくる。この影響は小説家にも伝わっていて、何年か前に直木賞を取ったとある現代作家の書いた文章で『違和を感じる』というところを見つけて、ずっこけそうになった。千円賭けてもいいが、これがもし印刷ミスでないとしたら、この部分は絶対に『違和感を感じるは誤用』を意識して書かれた文章に違いない。その作家の直木賞候補になった作品では主人公が『違和感を感じていた』のだから(Kindleの検索機能は便利だ)。

 ちなみに『違和を感じる』が正しい表現だそうで、なるほど、だからあそこだけ強烈な四角四面の正義感を放っていたわけだ。



 だからといって私は『違和を感じる』を使うのはおかしいとは言いたくない。ただそういう雰囲気を感じ取って気を使ったであろうことに違和感を感じているのだ。今の時代は政治的な理由であったり、文法警察によって表現が変えられることはよくある。どちらも背後に正しさが掲げられているのは同じだ。



 ジョジョの奇妙な冒険の文庫版でセリフが変わったというのは有名な話だ。ことさら汚い言葉を使えと言いたいわけではないけれど、普通ではない状態で普通ではない言葉が出てこないのはちょっとおかしい。迫力に欠けるような気がする。水清ければ魚棲まずというではないか。非実在青少年問題もあるし、表現のあり方はこれからもどんどん正しくなっていくだろう。



 アメリカではKindleが凄い勢いで広まった。日本では何故か流行らないけれど、ひとつの理由に本屋が多いという理由が挙げられる。アメリカの国土は日本の十倍以上あるのに、本屋は日本より少ない。もちろん都市部に住んでいれば日本と同じだろうが、それ以外の場所では一時間ぐらい車を走らせて、本を買いに行かなければならない事情があるわけで、スーパーマーケットで大人が乗れるぐらいの大きなカートに食料を一杯買い込むのも、毎日買い物に行くのがしんどいというのが理由である。Amazonが成功したのも店へ行く金銭的&労力的コストが高いからで、なぜAmazonみたいな企業が日本で誕生しなかったかといえば広大な空き地がないからというのがひとつの理由だろう。



 だが、ここで疑問にぶつかる。それならどうしてAmazonは日本でも勢力を伸ばしているのだろう。その気になればいつでも本屋に行けるのに、わざわざAmazonで買うのには理由があるはずだ。別に本を買わなくなったわけではない。むしろ年々本に使うお金は上がっているので需要自体はある。でも本屋には何故か手に取りたくなるような本が少ない。この理由が分かれば、日本の本屋はルネッサンスの時代を迎えるかもしれない。



 でも、そんなに言うほど今は暗黒の時代だろうか。近年は『火花』がどうとかいうニュースもあったし『君の膵臓を食べたい』もわりと伸びていた。新聞を見ていると、ところどころでヒット作も出ている。ミネルバのフクロウは黄昏に飛び立つという。出版不況が続いていると言われるが、実は太陽が少し傾いただけで、本当の黄昏はまだまだ先かもしれない。


『聖者の行進』を書いてみよう week13  車輪の再発明 2017/5/10

 色々本を読んだりノートを読み返したりしていて閃いたことは、この小説に中心となる人物がいないということだった。凄い発見をしたと驚いたのも束の間最初に考えていたことだと気付いた。また振り出しに戻ったというわけだ。

『聖者の行進』を書いてみよう week14 ニーチェの中に聖者を見つけた  2017/5/17


 ずっと自分に語りかけているような文章を書いていると、結局突き詰めれば自分のために小説を書いているんだなということが分かってくる。他人のためだとか、読者のためだとか言ってもそれはどこまでも自分の中に作った他人でしかなくて、つまるところ作家は誰のためでもなく自分のためにしか書けない。でも自己満足でさえ自分に縛られていると考える時もある。そうするとどうすればいいのか分からなくなって身の置き所がなくなる。

 最近ニーチェを読んでいるんだけど、あれは哲学書じゃなくて小説と思って読むとすんなり頭に入ってくることに気付いた。もしかするとニーチェはフィロソフィー(哲学)ではなくファンタジーなのかもしれない。

『聖者の行進』を書いてみよう week15 無記 2017/5/24



『聖者の行進』を書いてみよう week16 ぶつかったのは壁ではなく階段である 2017/5/31

 もうこれ以上進めないと思ったとき、そこでふと立ち止まり空を見上げると、壁に切れ目があるのを見つけられるはずだ。しかしあなたの前にに立ちはだかる壁はより高みへ昇るための階段だった。人生があなたに成長しなさいと試練を与えているのだ。

 あんなところ届きそうにない。

 もし登れたとしてもこの壁をまた落ちたらどうしよう。

 そんな不安があなたの成長を阻んでいる。

 あなたは勘違いしているのだ。人生はあなたに階段を登れといいましたか?

 人生は常にあなたの成長を望んでいる。あなたが今より十倍、百倍、あるいは千倍も大きくなれたとしたらどうだろう。その時、目の前は壁でもなく、階段でもなく、平坦な道になっている。

 階段を登らなければ、高いところに登らなければ、その考えを捨てましょう。

 あなたが大きくなれば壁は自然となくなります。問題は解決するまでもなく、通り抜けられるのです。

 成長することを恐れることはありません。あなたが階段に立ち向かったということはすでに成長している証拠なのだから。
 今月はちっとも書けないので、自己啓発本を読んでいた。上の文章は自分で考えた自己啓発文。他にも色々試してみたが自己啓発と小説って相性が悪いんじゃないかと思えてきた。気持ちが昂揚するほど聖者の行進が遠ざかっていくように感じた。

 転機は何の前触れもなくやってきた。朝起きると皮膚の裏に無感覚の麻痺した空白の層が広がっている感じがした。起きた瞬間に、あっ、今日は書けるな、と分かった。その日は少しだけ書けて、次の日はもっと書けた。さらに次の日も書けて、たった三日書いただけで、今月書いた分を超えてしまった。

 後で振り返ってみても何が原因かは分からない。特別何かアイデアが降ってきたわけでもないし、美味いものを食ったわけでもないし、何か変わったことをしたわけでもない。おまけに最初の日は寝不足で体の調子はかなり悪かった。それなのに書けてしまった。執筆は理不尽だ。


『聖者の行進』を書いてみよう week17 チャーリーが出てこない 2017/6/7


 先月末からちょっとずつ進むようになった。理由で思い当たるのは先月まで目の前に置いていたプロットを壊してしまったことだ。新しくプロットを立て直して、しかも書いている途中にそれも壊した。この先どうなってしまうのだろう、袋小路に向かって進んでいるような不安に駆られるが、それとは別に筆は進んでいく。

 今書いている章でチャーリーという人物を書く予定だったが、途中から「このまま進めるとチャーリーが出てこないんじゃないか?」と思っていて、やっぱりチャーリーが出ないまま終わった。チャーリーの出番は後ろにずれこんだが、もしかするとこのままずっと出ないなんてことがあるかもしれない。もしそうなると『聖者の行進』はどうなってしまうのか心配になる。

 でもたぶん出てくるだろう。重要だと思った人物は遅れても出てきたのだから。チャーリーもそうなるかもしれない。どちらにせよ早くチャーリーに会いたい。早く生まれてこい。


『聖者の行進』を書いてみよう week18 もう一人の私 2017/6/14


 先週は二重人格の本を読んでいた。二重人格とは普通想像するような一人の人間に別々の人間が二人いるというものではなく、主人格には記憶の連続性があるらしい。

 たとえばAという人格が車でどこかへ行く。そこで主人格Bに変わって家に帰ってくる。そしてまたAに戻る。この時Aは自分がワープしたように感じるが、BはちゃんとAが車で移動したことを知っている(実際に見聞きしているわけではない。知覚は常に過去形のようだ)。


 しかし別人格同士で繋がりがないこともある。これは稀なケースで、門外漢の私が勝手に予想すると主人格が眠っているのだと予想する。AもBも主人格ではなくCという主となる人格が奥へ引っ込んでいる状態というわけだ。



 そこまで考えてふと私も二重人格ではないかと疑い始めた。 今これを書いている私が私と思っているのは枝の先っぽで、本当は意識の後ろ側に別人格の牛野小雪Bがいるのかもしれない。



 思い当たるフシはいくつもあって、たとえばよく執筆が止まることがあるが、それが後になって、ああ、あそこで止まったからこれが書けたということがよくある。そういう時は別の私がその先を書くのは待てと引き止めているのかもしれない。何故こんな物が書けたのかよく分からないというのも度々遭遇する。



 もしそういう自分を仮定するなら、私より頭が良いに違いない。そういうわけの分からないところから出てきたものは私を納得させるものがあるし、そこから別のアイデアが引き出されるからだ。でも彼(あるいは彼女)はなかなか出てこない。顔は一度も見たことがない。声も聞いたことがない。どうやら恥ずかしがり屋のようだ。


『聖者の行進』を書いてみよう week19 馬野小雪 2017/6/21


 『聖者の行進』を書いてみようは今回でweek20。つまりPCに書くようになってから20週目。これを機(2017/06/19)に毎日Excelに記入している執筆字数を見ていくと、0だった日が32日あった。−の日が2日。合計すると丸々一ヶ月書いていないということになる。とんでもないなぁ。

 もう6月が終わろうとしているのもとんでもないことだ。年が明けるまでに『聖者の行進』を書ききれるだろうか。今のペースだと7月中には絶対に終わらない。今のところ20万字まで進んで、ようやく脂が乗ってきたところ。まだまだ終わりそうにない。そろそろ終わりそうだという時に一度ボツにしたアイデアが最後に復活するジンクスがあるので、予想以上に伸びるかもしれない。

 でも本当に恐いのは一生終わらないこと。そもそもタイトルが書いてみようなのは途中で書けなくなるかもしれないという危惧があったからで、今でももしかしたらと疑う時がある。

 そんなことを考えながら20週間も過ごしていると、今まで書いた物を振り返ってゾッとする。本当に自分でこれを書いてきたのだろうか。もしかして私じゃなくて『聖者の行進』が私に書かせているんじゃないかと考える時がある。

 もしそうだとしたなら、私はどうすれば『聖者の行進』を乗りこなせるだろうか。いや、むしろ私が馬になって『聖者の行進』を背中に乗せなければならないのかもしれない。


『聖者の行進』を書いてみよう week20 チャーリーは出てこない? 2017/6/28


 最近聖者の行進を書くのが恐くて仕方がないので週に一日か二日休むようにしている。まるで休肝日みたいだ。ということは聖者の行進はお酒ということなのかな。

 wordを立ち上げて最初に目次を見ると最近は吐き気がする。よくこんなに書いてきたな、と。ああ、恐い恐い。まるで自分で書いたような気分がしない。でも牛野小雪がいなければ聖者の行進も20万字まで進まなかったという気持ちもある。自分で言うのも何だけど凄いの書いている。

 一生終わらないような気がするけれど、こういう気持ちになった時は終わり近い頃で、折り返し地点は過ぎている。ここからどうやって終わらせればいいのだろうと作者も不安である。一応最後の部分はノートに軽く書いてあるが、本当にそこへ辿り着けるのかは分からない。遠くに見えていた目標はいつも目の前で裏切ってきた。最後もやっぱり違う何かが出てくるかもしれない。

 それにしてもチャーリーがまだ出てこない。このまま聖者の行進が終わってしまうぞ。


『聖者の行進』執筆 week21 孤独な魂からLOVEが生まれる! 2017/7/5

 今年に入ってから何となくKDP周りの状況が寂しくなっていると感じている。私の肌感覚では2年前ぐらいからその兆候はあった。Kindle Unlimitedが来てからその流れが加速したような気がする。それは『読まれているから』ではないだろうか。
  Amazonプライム会員の特典でオーナーライブラリーというのがある。これは対象のKindle本を月1冊無料で読めるというものだ。この仕組み自体はけっこう前からあって、当初は短い本も長い本も一冊でカウントされて同じロイヤリティが支払われていたのだが、ある時から読まれたページ数でロイヤリティが払われるようになった。

 KDPの管理画面では読まれたページ数が表示されるようになる。以前はレンタル何冊だったのが、何ページで表示されるようになったので、いまどれくらい読まれているのかを肌で感じられるようになったことを憶えている。

 これがいつ始まったのだろうかと調べてみるとなんと2年前から! やっぱりそうだ。以前は無料ダウンロードされようが、有料で売れようが、レンタルされようが、本当に読まれているのかは分からなかったが、今は読まれていると分かるようになってしまった。

 『しまった。』という否定的な語尾を付けるのは、これがまさにKDP作家の生命線を脅かしているから。 読まれることが悪いのではない。読者の存在を感じているのが良くない。

 孤独になれない作家は想像力を失うと私は思っている。誰かとチームを組んで小説を書くなんて想像できない。

 時々リレー小説をプロの作家でもするが、全くブームにならないのはそれが理由だろう。辻仁成と江國香織の『冷静と情熱のあいだ』が成功しているじゃないかというが、あれはそれぞれ別の物語として成立しているので、完全なリレー小説とは言い難い。その証拠にロッソとブリュに分けて出版されている。

 もちろん作家と読者はチームを組んで執筆しているわけではないのだが、どういう形であれ自分以外の誰かが心の中に存在しているのなら、その人は孤独ではない。

 はて、しかし何故孤独な精神がなければ想像力が失われるのだろう?

 人の心は不思議だ。

 『聖者の行進』はやっとチャーリーが出てきた。彼が出てくればいよいよ終わりが始まるのでもうじき書き終わるのかな。全然そんな気がしない。でもノートを見るとあと10万字以内で終わる。長いような短いような。とても難産だというのは間違いない。できれば7月中に終わらせられるといいなぁ。でも焦っておかしなのを書きたくもない。
追記:孤独と孤立は違う。仲間外れになっているのは孤立。森の中に一人立っている、もしくはキリマンジェロの山頂に一人立っているのが孤独。孤立は他者を必要とする概念だが、孤独は他者を必要としない。本質は場所の問題ではなく心の問題だ。

 読者の存在を感じていても、その誰かと繋がることは普通ないし、熱烈にコミットメントしてくるのは大抵悪意のあるパターンだ。

 作家はきっと愛を必要としているのだろう。でもそれは作家だけではなく誰もがそうだ。

 Everybody needs somebody to love.

 私は誰かにloveを与えているのかな。

 ということは想像力に必要なのは孤独じゃなくてloveなのかもしれない。孤立はloveマイナスで、孤独はlove0地点で、さらにその上のloveプラスの地平があるのだ。読者を怯えずに愛することができる作家はどんな小説を書くのだろう?

 と、ここまで書いて、作家が書けなくなるのは読者の存在に怯えているからという理由に思い至った。ある編集者の言によるとエゴサーチして書けなくなった作家は何人もいるそうだ。批判・中傷だけが理由ではないはずだ。村上春樹だってノルウェイの森が売れた時、最初は単純に嬉しかったけれど、あるところから恐くなったと何かの本に書いていた。他者の存在はどんな形であれストレスになる。期待や信頼も行き過ぎれば重荷になるのだ。世間の評判なんて気にするなという使い古された言葉が力を帯びてきた。

 読者を得ることは嬉しいことだけれど、それを心の拠り所にしてしまうと読者に依存してしまう。読まれているうちはうまくいくが、何かの拍子に読まれなくなると心の支えがなくなるし、そうでなくてもそのうち相手に合わせすぎて疲れてしまう。

 でも、そんなことは言ってもやっぱり愛は欲しい! 

『聖者の行進』を書いてみよう week22 小説が小説を救う? 2017/7/12

 KDPのコンテストがまたあるらしい。5万字以上20万字以下の規約があって高崎望は203,000字ぐらいだからちょっと削れば出せるということで手を加えていた。

 高崎望に手を加えるということは必然的に読むわけで、久しぶりに読んでみると悪くないと感じた。それと同時にまだまだ手を加えられるぞということも分かった。それで毎日1時間ずつ手を加えながら読み返していると、かなり精神状態が良くなった。

 今まで『聖者の行進』が書けなくて落ち込んでいたけれど今は書けるかもしれないと思い始めている。執筆が進まなくてもうダメだと思っている時には、自分の小説を読み返すと良いのかもしれない。
追記:やっぱり執筆中の文章は改稿しちゃダメだと思った。書けなくなりそうな気がしたのでやめた。

『聖者の行進』を書いてみよう week23 当てずっぽうの予感通り 2017/7/19


『聖者の行進』を書き始める前に、これは4枚の壁にぶち当たる小説だと書いたような気がする。とにかくそれを書いた時には既に1回目の壁にぶち当たって乗り越えた後だったというのは覚えている。

 5月に2回目の壁が来て、それを乗り越えると、このまま書き切れるのではないかと期待していたが、今は3回目なのかな。全然書けない。書けなくて嫌になっていたのだが、そうか、これは予感通り4回の壁の一つなのかと思い出した。ということはこれを乗り越えてもまたもう一つの壁があるのか。嫌だなぁ。

 エバーホワイトの執筆中に聖者の行進のノートを書いていたので、そろそろ執筆開始してから一周年になる。ああ、しんどい。もっと楽な小説を書きたいな。でも聖者の行進を書いてしまったらもう小説を書けなくなるんじゃないかと心配している。

 でも根拠のない予感通りの壁にぶち当たっているのなら、同じ理由ですんごい小説になるんじゃないかな。


『聖者の行進』を書いてみよう week24 やっとチャーリーの出番 2107/7/26

 チャーリはプロットを書き始めたときから存在していた。名前は二転三転したが異質な存在なのでチャーリーという外国人の名前に落ち着いた。登場したのは二つ前の章だがいよいよ動き始めた。

 今までで一番手応えのある章だが1日1000字書くのがやっとだ。おまけに他の章より長くなりそうだ。このペースだとチャーリーを書き終えるのに一ヶ月もかかってしまう。書かない間に成長してくれるのは良いが、ちょっとぐらい神(作者)を助けてくれたって良いじゃないか、と愚痴を言いたくなる。

 week24ということはもうじき半年になるわけで、こんなに長い執筆は初めてだ。今年はこれ一作で終わりそう。

『聖者の行進』を書いてみよう week25 本文なし 2017/8/2

本文なし
追記1:またプロットの立て直し。何回やったんだろう。しかし立て直すたびに聖者の行進は良くなっていく気がする。あと一回ぐらい大きな波が来れば最後まで書けそうな気はするんだけどこればっかりはしょうがない。また書ける時が来るのを待つしかない。
追記3:意味や価値を与える小説ではなく奪う小説があっても良いのではないか。なんてことを考えていた。黒髪の殻とかエバーホワイトは奪う側の小説だと思った。

『聖者の行進』を書いてみよう week26 チャーリーを書くその前に 2017/8/9


 聖者の行進を書いている間に、田んぼに水が張られ、田植えが始まり、稲が伸びて風に青臭い匂いが混じったと思ったら、黄金色の稲穂が垂れている。早いところではもう収穫が始まった。頭では今が8月と分かっているのに、肌や内臓の感覚は2月のままなのでとても不思議なことに感じられる。聖者の行進を書き始めたのが2月だった。あそこから時間が止まっている。

 この前チャーリーがどうのと言っていたが、先週一つ章を足して、とても伸びているのでチャーリーの時間が止まっている。でもこの章を書いておけば、チャーリーがさらに活きるんじゃないかなという予感がしていて痛し痒しである。


『聖者の行進』を書いてみよう week27 とうとう半年が経ってしまった件 2017/8/16

 本文の執筆を開始してから半年が過ぎてしまった。書き始める前は「どうせこんなもの私に書けっこないから7万字くらいに縮小して書こうとしていたが、あれよあれよと思惑が外れて当初の目論見通りに事が運んでいる。

 ああ、恐ろしい。当初の目論見通りに事が運ぶつもりなら、まだ中編一個書くぐらいの勢いが必要だ。聖者の行進なんて聖者っぽい名前だけど、こいつはひどい性格をしている。最後の一滴まで絞り出させるつもりだ。最近は書くのが恐くなる時がある。

 チャーリーの章を書く前にひとつ章を足した。聖者の行進を前提にしないと成立しない3万字だが、ここだけ抜き出して短編にして出したいぐらい気に入っている。

 弱音を吐きながら書いて何だかんだで2部もあと3章半で終わり、3部もそれほど長くならないだろう。

 最後の最後に「一体何を読まされたんだ!?」と驚くような結末にしたい。でも、怒られるかな。「こんなもの読ませやがって!」って。とにかくことの善し悪しは脇の置いて、脳みそから空の天辺まで飲み込まれるようなすっごい小説になるのは間違いない。

『聖者の行進』を書いてみよう week28 殺し合いにも似た執筆 2017/8/23


 執筆はギャンブルだ。今日4000字書けても、明日4000書けるとは限らない。今日6000書いたら次の日は8000書けたということもある。今日の執筆は明日の執筆を保証しない。理不尽ではあるけれど救いでもある。たとえ一文字も書けない日が続いても、ある日突然書けるようになることもあるからだ。


 あるいは立ち会いにも似ていて、お互いに剣を向け合って立っているけれど、二人がすれ違うとどちらかが倒れている。


 執筆の良いところは作者が切られても死なないことだ。それどころか切られたことが喜びに繋がる。私を切ったのはこんなに凄い相手なのかと。だから単純に勝ったとしても素直に良いとは言えないところが執筆にはある。

 自分を殺してくれるような相手じゃないと殺す意味はない。でもそういう相手を殺さなければならないという矛盾。

 半年の間、聖者の行進と毎日首を締め合っていると負けることが快感になる瞬間がある。予想外に書けてしまうと、もしかして書かされたのではないかと不安になることさえある。私が弱くなったのか、聖者の行進が強すぎるのか。

 あといくつ黒星を積み上げれば聖者の行進に届くのだろうか。そもそも小説に勝ちなんて存在するのか?


 勝つ負けるじゃなくて、勝ち負けの超越。なんだそれ。でもそういうことなんじゃないか?



『聖者の行進』を書いてみよう week29 さようならチャーリー 2107/8/30

 先週チャーリに退場願った。元々第二部はチャーリーのためにあったもので感慨深いものがある。一区切り着いたので、ここから第二部の終焉に向けて気合入るのかなと心配だったが、ちゃんと追い上げている。自分でもちょっとビックリ。今すんごい物を書いている。むしろチャーリーがいなくなってからが本番だ。

 第一部だけでも良いもん書いたな、なんて内心鼻高々だったけど、今書いている章と比べたら月とスッポン。半年も書いていたら変れるものなのだろうか。今まで積み上げたものがあるからそう感じるのかな。

 第三部の締めを意識するところまでは書けた。今はここが私の見えている極限ポイント。完全に閉じるか、完全に開放するか、あるいは半分締めるか。完全に閉じれば綺麗に収まるだろうけれど、小さく収まりすぎる気がしていて、でも完全に開放するのも締まりがない気がする。じゃあ半分で締めるか、ということになるのだけれど、これには二通りの締め方があって、う〜ん、どっちも迷うなぁという感じ。

『聖者の行進』を書いてみよう week30 ピカソと村上春樹 2017/9/6


 先月は6万字書いていた。書いた手応えはないのだけれどコツコツ書いていたのが利いたのだろう。

 休むことは難しい。書かない日、あるいは時間を作った方が結果的に書けることは知っている。でもいざ休もうとするとサボっているだけなんじゃないかと不安になる。

 時々こんなことを考える。小説を書くのは楽しい。楽しいというより充実感がある。ハイパーグラフィアという文章を書かずにはいられなくなる病気があるぐらいだ。もし仮に心の中を言葉にして吐き出せるサービスがあるなら一時間5万円は取れるだろう。でも実際に1時間執筆して、本当に書いている時間というのは5分もなくて残りの55分は書けない時間を過ごしている。書けない時間はとても苦しい。一日0字だと死にたい気持ちになる。だから誰も小説なんか書かない。逆に言えば小説家というのは書けない時間を過ごしているから価値があるのではないか?

 この世に価値がある物は、他では手に入らない物と、誰もやりたくない手間のかかることの二つ。一般的な小説の価値は前者であるが、後者の価値もなくはない。ただ供給量が多いからタダに近くなっている。

 私は執筆中に雑感帳というノートを書いている。これは小説が書けない日でも書ける。むしろ書けない日の方が多く書いているぐらいだ。書くこと自体はそれほど難しくないのかもしれない。でも雑感帳を読み返すことは少ない。書くことを楽しんでいる文章は読んでいて面白くない。圧力のない文章はダメだ。

 しかし圧力があるとか、文学的に言えば『魂がこもって』いれば、あるいは『魂を削れ』ば正しいのか。いや、もっと踏み込んで考えれば小説に正しいことを求めているのか?

 実は正しいことにあぐらを書いてサボっているのかもしれない。

 努力は素晴らしいことだと言われている。同時に努力の跡が見えるのは二流だとも言われている。私は今まで圧力をかけることに熱中していて、圧力の跡を消すことは意識していなかったので今回は推敲する時に「コイツ、鼻くそほじりながら書いたんじゃないか」と言われるぐらい圧力を消すことを意識しようと思っている。ピカソの絵は子供が書いたみたいだと言われているし、小説の世界でも村上春樹は「俺でも書ける」なんて言葉がよく聞かれる。私もそういうところを目指してみよう。


『聖者の行進』を書いてみよう week31 小説のアイデアはどこから湧くの? 2017/9/13


 自分でも何故書いたのか分からない部分があって、それでも消すには何かおかしい気がして、そのまま書き進めているうちに最後の最後になってようやく繋がるということがある。小説のアイデアは自分でも分からないところから湧いてきて、それはたいてい心の死角から育ってくる。

 もしかすると近いうちにお目見えするかもしれないが、行き詰まっていた時に別の小説を書いていた。そんなことをしている場合じゃなかったのだけれど、思い切って書いてみたら聖者の行進も書けるようになったので、書く必要もないのにたくさん書いてしまった。

 もうじき第二部も終わり。なんだかんだでエンドが見えてきた。今年は聖者の行進と過ごした一年になりそうだ。


『聖者の行進』を書いてみよう week32 最後の跳躍? 2017/9/20


 聖者の行進を書くにあたって決めたことがひとつある。それは『後からひらめいたことは絶対に正しい』ということだ。途中でプロットを破壊するひらめきが降ってきても、そちらを優先するということだ。

 第三部を書き始めてそろそろ締めが見えてきたところで、まさかのひらめきがやって来た。おいおい冗談だろ、そんなのありえないって最初は無視しようとしたけれど、布団に入って考えているうちにやっぱりそうしなきゃな、と思い始めて、結局考えていたラストは無しになってしまった。どうやって終わらせるんだよ・・・・と不安になるがしかたがない。なんだか反抗期の不良を手なずけようとしているようだ。


『聖者の行進』を推敲してみよう week33 獣性でも理性でもなくお化けみたいなもの 2017/9/27


 やっと終わった!
 33週目にしてついに書き終えた。358,343字にて初稿完成。本当に終わるなんてちょっと信じられなくて半日ぐらい呆然とした。最初から35万字だと分かっていたら絶対に書かなかった。



 聖者の行進を書き終わって考えたのは、理性と獣性の果てには孤独に死ぬしかなくて、その先に行くには幽霊性が必要なんじゃないかということ。幽霊性は別に幽霊じゃなくてもいいんだけど、直接的には『幽霊になった私』でアキを死なせないため出てきた幽霊とか『ブラッド・エグゼキューション』のギャルっぽさでもいいし『ヒッチハイク』みたいにトラックのエンジンから茹でたカニが出てくるシュールさでもいい。『聖者の行進』のラインを進んでも行き詰まると感じた。まだもうちょっと踏み込めそうだけど一寸先の闇に断崖しか待っていないと感じる。



 さて0を1にする作業は終わった。ここからは推敲だ。牛野小雪Season2最後の小説にするつもりだから最高の最低傑作にしてやりたい。


『聖者の行進』推敲してみよう week34 小さな奇跡が重なってそれでどうなるって言うんだい? 2017/10/4


 執筆をしていると色んな偶然や発見が起きる。エクセルに執筆の文字数を記録していて、日付は10月2日まで記されていた。なぜ10月2日だったのかは分からない。8月の初め頃にセルを伸ばして、まぁそこぐらいには終わっているだろうと何故か思ったのだ。そして推敲の一周目が終わったのがちょうど10月2日。ここでもちょっとした運命の重なりだ。

 他にもまだ奇妙な重なり、あるいは偶然がある。あえて記さないが中には信じてもらえないようなことも起きた。私も信じられなかったので、日記に書いたほどだ。

 ただの偶然、まぐれ、思い違い。色々可能性はあるけれど、それらの積み重ねで『聖者の行進』を書けたというのは私の中の真実だ。大きな奇跡は起きなかったけれど、小さな奇跡がたくさん起きた。

 この小説は自分だけの力で書けたとは思えない。神も聖者も出てこない小説だからメフィスト・フェレスと契約でもしたんだろうか? 悪魔も出てこないんだけどなぁ。



 ある本に高等数学の世界では0から1を作ることは不可能だと書かれていた。意味は分からなかったがライプニッツの数式が書かれていて、分からないまま読み進めていくと、その数式は収束しないから間違っていると書かれていて、さらに分からなくなったが、執筆って0を1にする作業で基本的に奇跡だなと思った。


 執筆に再現性はない。誰かが私のノートを見て『聖者の行進』書いても、私が書いた『聖者の行進』にはならないだろうし、私自身がもう一度書いても、また別の物ができあがるだろう。そう考えていくと究極的には小説の執筆って技術じゃないんだな、と嬉しいような恐ろしいような気持ちになった。小説は理不尽な奇跡だ。


『聖者の行進』を推敲してみよう week35 軽くて早い文体 2017/10/11


 今回は軽くて早い文体にしようと思っていて、執筆の最初期はヘミングウェイの『われらの時代』を何度も読んだ。それとスタインベックの『怒りの葡萄』。 日本の作家だと村上春樹の『風の歌を聴け』夏目先生の『こころ』も読んでいた。本としては猫が良いが、文体はこっちが軽くて早い(←こういう言い方すると語弊があるなぁ)。


 さらにもう一つ、文章の視点を揺らそうと試していて、自分で読めばちゃんと揺らせているのだけれど、親の贔屓目で、ただ単に揺れているだけかもしれない。こういうことは疑おうと思えばどこまでも疑える。最後は自分を信じるしかない。



 さらに、さらに、聖者の行進は主人公がいない小説にした。群像劇というのもちょっと違う。三人の人間が出てくるけれど、三つのラインが一つの小説にまとまらなくて空中分解しているのではないかという不安がある。



 不安でも自信があっても自分の実力以上の物は書けないわけで、手を抜かずに推敲していくしかないんだと結局はそこに行き着く。基本的に三周目は見直し程度の事しかしないから、二周目でどこまでやれるかだ。



『聖者の行進』を推敲してみよう week36 紹介文を考え始めた季節 2017/10/18


 推敲の良いところはゴールが見えていることだ。いくら苦しんでも聖者の行進は26章で終わる。逆に言えば26章まで頑張らなければいけないという事だけど、見えている壁と見えない壁はどちらが苦しいだろうか。

 推敲の2周目は11章まで終わった。そろそろ上巻分が終わるので、内容紹介を考えなければならない。そこで今回は二つのバージョンを作ってみた。ひとつは内容をお固い文章で、もうひとつは柔らかく。

◎お固いバージョン
町へ出るトンネルの出口で美男美女の二人が殺された
無軌道に犯行を重ねるまさやんと追いかけるタナカ
しかしそんな事とは別に破滅の車輪は回り始めていた



◎感性が試されるバージョン

あした世界が終わるとしても私は私であり続けた

おめでとう、ありがとう、そして、さようなら

神に救われる価値のない魂は孤独な沈黙を貫いた



 お固いバージョンにもあるように、聖者の行進の第一部ではまさやんという男が人を殺して、それを刑事のタナカが追いかけるのだが、三行目にあるように小説全体で見れば全然関係ない。小説全体の世界観は下のほうがよっぽど表している。でもこれじゃあ全然伝わらない。内容紹介って難しい。


『聖者の行進』を推敲してみよう week37 『夏目漱石先生の追憶』の追憶 2017/10/25

 最後の章を1日おきに推敲していたらどんどん短くなって、八百字ぐらいになると読み味が散文詩っぽくなってきたので文章を書き足したのだが、詩で終わって何の問題があるのかと思い至ると最後の章を詩に書き直した。

 そうすると頭の中でピョンピョンとインパルスが走り、夏目先生の言葉が思い出された。寺田寅彦の『夏目漱石先生の追憶』という本にはこうある。

「俳句はレトリックの煎じ詰めたものである。」「扇のかなめのような集注点を指摘し描写して、それから放散する連想の世界を暗示するものである。」

 なるほどなぁ、詩についての言葉ではないが、文章を煮詰めていくとそういう風になるのかと思った。先生の言葉が思い浮かぶとさらに文章を絞れて、俳句にはできなかったけれど124字にまでできた。もうこの三行だけで『聖者の行進』で良いんじゃないかと思えたほどだ。
 な~んて、書いたけど1日経って読み返したら、詩としては弱い気がしたので小説できちっととどめを刺すことにした。生兵法は怪我の元だ。

『聖者の行進』を書いてみよう Week38 体でドクシャーの波を感じろ 2017/11/1

 やっと推敲二周目が終わった。ほぼ一ヶ月かかった。だいぶ良くなったぞ。でもこれは読むことに慣れたからかもしれないと思う時もある。何故なら作者は文章の背後にある文脈を把握しているからだ。

 こういうことはいくらでも疑える。人間の想像力はたくましい。『聖者の行進』が世界で一番素晴らしい小説だと思い込むこともできるし、ゲロ以下の文章と想像することも可能だ。

 たとえ他者の反応があったとしても、やはり疑うことは可能である。世界中から酷評されても世界一と思うこともできれば、世界中から絶賛されてもそう思えないこともあるだろう。想像力に限界はないのだ。

 そんなことを考えていると、体は限界のある存在で、世界に存在する可能性は一つしかないということに気付いて『聖者の行進』の目次に手を当ててみた。

 すべすべした冷たい感触が腕の神経をはい上がってきて、胸がドキドキした。イケる、イケるよ。これこそが『聖者の行進』のリアルだ。たった一つの真実なんだ。きっと読者(ドクシャー)も同じことを体感するに違いない。聖者の行進を読むと心が空へ飛んでいくんだ!

 と、胸を弾ませたのだが、一日経つと何も信じられなくなった。あの時感じた胸の高まりは本物だったのだろうか。真実は小説の神様だけが知っている。人間は迷い続けなければならない。

『聖者の行進』を推敲してみよう Week39 やっぱり最高の最低傑作 2017/11/8

『聖者の行進』は七万字を目標に書き初めて、それが35万字まで伸びて、そこから25万字にしたわけで、最初の想定の5倍膨らんで7割に縮めた。一度削りすぎた時に(あっ、これはやりすぎだな)と文章を戻したことがあって、それで失敗してもちゃんと小説の方で反発してくれることが分かると、極限までやってみようと大胆になった。

 10万字も削って大丈夫かなと思うけれど、行くところまでは行けたという達成感はある。今回は重さに頼らない小説にしようと決めていて、初稿は軽くて早い文体を意識したし、推敲では重さを抜くことを意識した。9月の末にとんでもない物を書いたという達成感があったが、今月はとんでもない物に仕上げたというまた別の達成感があった。

 小説作法としては最悪の手法で書いている。小説の新人賞に出したら一次で落とされるだろう。でも全力で書けば無理を通せるんじゃないかと挑んでみた。無謀を通せるのがセルパブの良いところじゃないか。
『聖者の行進』が小説的に成功するかどうかは分からない。だけど、小説家としては大きな成果が得られた。今年の牛野小雪は何かが違う!


このブログを検索