〈内容紹介〉
何故か敵を消してしまう
賢者は己が何者か分からず
ただ状況に流されていく
迫りくる河童の軍勢
敵は魔王と四天王
そして・・・
【試し読み】
トラックのクラクションが鳴ると全ての音が痺れた。頭からつま先まで震えている。きっと凄い音が鳴っているのだろう。金属光沢を放つバンパーの中に目と口を開けた私の姿が引き伸ばされていた。
私の足元には蓋が開いたマンホールの穴があった。穴の幅は人一人が通るのがやっとで中は真っ暗だ。どこに通じているのかは分からない。ここに立っていれば私はトラックに轢かれて死ぬだろう。私は肩をすぼめてマンホールの穴に飛び下りた。
音の痺れがなくなると風が勢いよく耳を吹き抜けていく音がした。この勢いで穴の底に落ちれば私は死ぬだろう。マンホールにはハシゴがあるはずだ。私は穴の壁に手を伸ばしたが、生暖かくぬるぬるした物に触れて手を引っ込めた。何に触れたのかは分からない。穴は真っ暗で何も見えなかった。
私は別の場所に手を伸ばした。どこも生暖かくぬるぬるとしていた。壁は平らではなく微妙な凹凸があり、生きているようでもあって気持ち悪かった。それでも私は落下を止めようと両手を広げて壁にひっかかろうとした。しかし手は宙を掻いただけだ。どこへ手を伸ばしても壁には触れられない。どこかで穴が広がったようだ。
落下はまだ続いていた。あまりに長く落ちていると恐怖より不思議さが強くなった。もう何分も落ち続けていた。どこへ落ちるのだろうか。本当はもう私はトラックに轢かれていて、これが死後の世界なのかもしれない。死後の世界には天国も地獄もなく永遠に暗闇を落下し続けるのだとしたらと考えて、私は叫んだ。叫んだつもりだが声は暗闇に吸収されて本当に声が出ているのか分からなかった。暗闇と落下はどこまでも続いた。
私はふと背中に柔らかい物が当たっていることに気付いた。体の前にも柔らかい物が乗っているような気がする。暗闇に棲むミミズみたいな怪物が私を飲み込もうとしているのだ。私は叫んだ。今度の叫びは何かに当たって私の耳に返ってきた。いつの間にかまぶたの裏に光を感じていた。目を閉じているのだと分かって私は目を開いた。
視界の周りを数人の男達が囲んでいた。囲まれていたからというのもあるが、男達の頭と恰好に私は驚いた。男達はみんな烏帽子(古い時代の日本で被られていた帽子)を被っていた。服は直垂(鎌倉、室町時代の武士が着ていた和服。広い袖の先に括り紐が付いている)で侍みたいな恰好だ。
「目覚めましたぞ」
一人の男が叫び、視界から消えた。他の男達は嬉しいような恐がっているような目で私を見下ろしていて、私が体を起こすと彼らは怯えたように距離を取った。
私は布団に寝かされていた。辺りを見回すと床は畳で、格子状に木が組み合わされた高い天井に、部屋は人が百人ほど座れそうなほど広く、白い土塗りの真っ平らな壁、男達の向こうには松と岩山が描かれたふすまがあった。
その襖が開くと白髪の男が入ってきた。
「おお、賢者殿。目覚められましたな」と白髪の男は私のそばに座り「家老の水谷でございます」と頭を下げた。相手が頭を下げたので私も頭を下げ返そうとすると、水谷は頭を上げて「いえいえ、賢者殿が頭を下げられることはございません」と押し止めた。
「賢者殿を異界より召喚してから、もう三日も経ちました。その間賢者殿が目を覚まされないので我らは気を揉んでおりましたが、ようやく目覚められましたな」
私は賢者ではないと言いたかったが水谷も周りにいる男達も私を賢者と信じて疑わない態度であったし、水谷は勝手に話を進めた。
「我らは危急存亡の時でございます。辺り一帯はすでに四天王の軍勢に包囲されております。四天王とは六つの手を自在に操る蜘蛛弾正吉久、武門の誉れ高い湊所司代蛙水左衛門、千の着物と万の宝飾を持つ猫太夫お涼、巨漢の大食漢太政大臣猿田彦、それら四天王を束ねておるのが己を無限大魔王と称する阿部真朱麿でございます。彼らは河童(日本の妖怪。人型。全身緑色で頭頂部に皿と呼ばれる円形状の毛の生えていない白い部位がある。皿はいつも湿っていて、皿が乾くと力が抜けるとか死ぬとかいう説がある。背中に亀の甲羅があり、手の指と指の間にみずかきがある。きゅうりが好き)を従え、我らを滅ぼそうとしております。どうか、どうか、賢者殿の御力で我らをお救いくだされ」
水谷が頭を下げると周りの男達も一斉に頭を下げた。彼らはふざけているのだろうか。しかし水谷達はどうも本気で私に頭を下げていた。彼らが本気だけに私は気まずい思いがした。もし私が賢者ではないと知れば彼らは落ち込むだろう。落ち込むだけならいいが、私はどうにかされてしまうかもしれない。
どうやってこの場を切り抜けようかと考えていると水谷は顔を上げた。私と目が合うと粘土をこねたような笑顔になった。
「これは失礼。賢者殿は異界から来られたばかりで、まだ何とも答えられない様でございますな。宴席を設けておりますゆえ、ごゆるりと心身を休められるとよい。この三日何も食されておられないので空腹でございましょう。準備はできております」
水谷が手を叩くと数人の男達が部屋に入ってきた。彼らは手に直垂や烏帽子を持っていた。私は彼らに促されるがまま立ち上がると、服を脱がされ(眠っている間に私は浴衣を着せられていた)、直垂を着せられた。直垂なんて着たことはないが、全て彼らがやったので私は立っているだけで良かった。そして最後に烏帽子を被せられた。彼らはせいぜい拳ほどの高さの烏帽子だったが、私の烏帽子は手首から肘くらいの背の高い烏帽子だった。
私が着替えている間に水谷達は部屋を出ていた。着替えが終わると、着替えを手伝った男達も部屋を出ていった。すると部屋の外で「グァ、グァ」と鳥の鳴き声が聞こえた。武家屋敷みたいな場所で鳥の鳴き声というのも奇妙だった。鳴き声は襖のすぐ裏から聞こえるが、勝手に覗いても良いものかどうか判断がつかなくて私は畳の上で手持ち無沙汰に立っていた。
襖が開くと一人の男が部屋の前にある廊下に座っていた。
「賢者殿、宴の準備が整いました。どうぞこちらへ」
男は廊下の先へ手を向けた。
私は男の促されるまま部屋を出ると河童達が廊下に並んで伏していた。黄色いくちばしに緑色の肌、頭頂部は丸く禿げていて、白い皿が露わになっていた。その皿の後ろには髷が結われている。結われていないのは女の河童なのだろう。髪が長く服装が女物だった。男女どちらの河童も首の後ろにある隙間から甲羅が見えていた。水谷の話では河童がどうとか言っていたが、彼らは人間に仕えているようだし、私を迎えにきた男も当たり前の様に河童の前を歩いていた。
「さっ、どうぞ」
立ち止まった私に気付いて男が私を促した。河童達は頭を下げて廊下に伏している。何人かの河童が私の顔を見ようとして、すぐにまた頭を下げた。
わけの分からないまま私は河童の廊下を通り過ぎて明るい部屋に通された。部屋の中心がぽっかりと空いていて、その周りに朱塗りの黒い縁取りがされた膳(食べ物や食器を乗せる台)と濃い草色の座布団が二列並べられていた。膳の上に料理を並べているのは河童で、人間達は当然の顔をして膳の前に座っていた。
「賢者殿はこちらへ」
殿を付けて呼ぶぐらいだから男が案内したのは一番上座の席だった。膳も他の物と違って金箔が貼ってあったし、座布団には鶴と松の刺繍がある上等な物で、座ると腰まで埋れそうなほど生地が厚かった。
家老の水谷は私の斜め隣に粘土みたいな笑顔で座っている。そして私の真横にはもう一つ席があった。膳は私と同じ金箔が張ってある物で、座布団の刺繍は亀と子亀が連なって稲穂の間を泳いでいる物だった。偉い人が座る物に違いない。
廊下が騒がしくなり、それから静かになるとオレンジ色や赤、黄色と派手な柄の打掛(和装の羽織り物)を着た女河童を従えて、一人の女が部屋に入ってきた。
女は赤い袴に白い服の裾を垂らしていた。頭には金箔を貼った背の高い烏帽子を被っていて、長い黒髪が腰まで垂れていた。唇はやけに赤く塗られている。女は姿を現した時から目を伏せていたし、俺の隣に座ってからは目を閉じて、じっとしていた。周りの扱いや服装からして、ただの女ではなさそうだった。
「稲姫様にございます」
水谷が畳に手を付いて身を寄せると私に耳打ちした。粘土をこねたような笑顔がさらに歪んだ。何がそんなに嬉しいのか分からない。稲姫という女は背筋を伸ばして目を閉じたまま、やや顔を伏せていた。姫様というので偉い身分なのだろう。身のこなしが上品だった。
一人の河童が私の前に来て膳に載せてあった白い徳利(お酒が入っている注ぎ口が細い陶器)から内側が朱塗り、外側が黒塗りの杯に甘い匂いがする白く濁った酒を注いだ。隣の稲姫も同じように注がれていた。水谷は自分で杯に酒を注ぐと、立ち上がって乾杯の音頭を取った。
「三日間眠り続けておられた。賢者殿がついに目を覚まされた。今宵は我らとの親睦を深めるために大いに飲んで食べて満足してもらおうではないか」
周りから「おお」と声が上がり、男達が一斉に私の方を向いた。私は賢者ではない、とはとても言えない雰囲気で、私は杯を目の前に掲げると酒を一気に飲み干した。男達も杯を傾けて一気に飲み干した。隣にいる稲姫は杯に口だけを付けて膳に戻した。
それから鮮やかな柄の着物を着た猫が入ってきて、三味線を弾いたり、鼓を打ったり、舞を舞ったりした。河童にも驚いたが猫人間にも驚いた。この世界では普通のことらしく水谷も他の男達も驚いたりはせず、杯を傾けては声を上げて笑っていた。隣に座っている稲姫は石みたいに静かだ。
「さっ、賢者殿。まずは私の酒を受けてくだされ」
水谷は徳利を持って席を立つと私の膳の前に座った。水谷が徳利を傾けて待っているので私が杯を差し出すと、水谷は酒を注いだ。それから水谷はじっと私の顔と杯を見てきたので私は酒を飲み干した。すると水谷はまた粘土をこねたような笑顔になり「さっ、お前達も賢者殿に受けてもらえ」と若い男達に徳利を持たせて、私の前に並ばせた。
「彦根参伍郎にござる」
水谷の次に酒を注いだ男はそう名乗った。彦根参伍郎は緊張した顔で私の顔と杯を見てくるので、杯を飲み干してやると、ほっとした笑顔になった。
彦根参伍郎が膳の前から退くと、後ろにいた男が前に出てきて徳利を傾けた。名乗ったことは憶えているが名前は思い出せない。何人もの男達が私に名乗っては酒を注ぎ、私はそれを飲み干した。彼らを下手に扱えば何をされるか分からない。酔いの気持ち良さに逃げたかった。
きゅうりを縦半分に切って味噌を薄く塗った物を食べると火照った体に冷たくて気持ち良かった。
「賢者殿は味噌きゅうりがお好きなようだ」
誰かがそう言うと皿一杯に盛られた味噌きゅうりが新しい膳と共に出てきた。隣にいる稲姫は膳に箸を付けていなかった。杯にも白く濁った酒がなみなみと残っていた。感情豊かな男達と違って、稲姫はあらゆる感情を押し殺した顔で目をつぶったまま座っていた。その様子を見ると私は胸が寒くなって酔いが冷めてしまった。
「さっ、宴もたけなわでございますが、あまり酔いつぶれられても後の事がございますので今夜はこれぐらいで。稲姫様は先に退出なされて心と体を決められませ」
水谷が言うと、稲姫は無言のまま河童に手を引かれながら部屋を出ていった。
「河童も悪い者ばかりではないのです」
私が稲姫の後ろ姿を見送ると水谷が言った。
「河童は数も多く力は侮れません。しかし根は素直なのです。道理を説けば決して害にはなりません。それを阿部真朱麿が純真な河童共どころか他の動物達まで扇動して『人間滅却』の旗を掲げたのでございます。阿部さえ倒していただければ河童共は正気を取り戻し、全てが丸く収まりましょう。お頼みしますぞ、賢者殿」
私が賢者であることは何故か疑いようもなく信じられていた。一刻も早く誤解を解かねばならないが、こうも信じ込まれるとどうすればいいか分からない。賢者というぐらいだから阿部真朱麿とかいう人物を倒す策か知恵を期待されているのだろう。もちろん私には戦の知識も経験もないので、すぐにも誤解は解けるはずだが、問題は誤解が解けた後に私がどうなるかで、下手をすると首を切られるかもしれない。ここは誤解を解くよりも密かに行方をくらました方が良さそうだ。
「さっ、賢者殿。寝室へご案内いたしますぞ」
私は水谷や他の男達に囲まれて部屋を出た。今のところ抜け出せる隙はないが賢者殿とおだてられているので、どこかで気の緩む機会はあるはずだ。
私は寝室に戻ってきた。布団が二つ敷かれていて、薄明るい行灯(立方体の骨組みの四方を和紙で囲んだ照明器具)が布団の四隅に置かれていた。
「ささっ」と水谷が卑しさを感じさせる笑顔で私を布団に導いた。布団が二つあるので、まさかこの水谷とかいう老人と一緒に寝なければならないのだろうかと不安になったが、水谷は「どうぞ、気を安らかに」と頭を下げて部屋を出た。
襖が閉められると私は寝室に一人残された。このまま何もなく寝るのだとはとても信じられない。まだ何かがありそうだった。
私が落ち着かない気持ちで布団の上に座っていると、私が入ってきたところとは反対側の襖が開いた。廊下には白い寝巻き姿の女が一人立っていた。金の烏帽子もないし、唇も赤く塗られていないが稲姫だとすぐに分かった。
稲姫は足音を立てずにするすると部屋に滑り込んでくると、後ろで音もなく襖が閉まった。稲姫は私の隣にある布団の上に座ると、ひざの前に両手の指を揃えて置き「稲でございます。異界の作法を知らず不調法がございましょうが、誠心誠意尽くさせていただきますので、ご容赦いただきとうございます。ふつつか者でございますが、どうかよろしくお願いいたします」と頭を下げた。とんでもないことになったと私は腹の中が涼しくなった。
稲姫が頭を上げた。目が合うとまつ毛の長さが印象的だった。意思の強そうな目に見つめられると私はいたたまれなくなり、布団の上から逃げようとした。すると稲姫は身を乗り出して私の手を両手で掴んだ。稲姫は姫らしく繊細な造りの手をしていたが異常なほど指に力がこもっていた。
「なりませぬ。賢者殿は私と契りを結ばねばなりませぬ」
稲姫は私の手を握ったままにじり寄って、間近に私の顔を覗き込んだ。
「賢者殿は異界より来られたお方。この世に縁がございませぬゆえ、いつまたこの世を去られるか定かではない。それゆえ私と契ってこの世と縁を結ばねばならぬのです」
賢者でもないのに姫様と契ってしまえば私は殺されるだろう。稲姫は覚悟を決めた顔で私を見つめていた。契る気満々だ。
稲姫が私の胸にもたれかかってきた。
「賢者殿の御気の召すままになされませ。稲の全てを捧げます」
私の胸に美しい黒髪に覆われた稲姫の頭が載せられた。良い匂いがするし、思わず抱き締めたくなるような可愛らしい頭だった。しかし、決して触れてはならない。私は賢者ではないのだ。
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