高崎望は14歳の秋に学校へ行けなくなった。
幸いにも担任の先生の尽力により高校に進学するが、
彼が入った上等高校は不良が集まる危険な学校だった。
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1 上等高校受験
「望君は、やればできる子だからがんばって!」
車の中から母親が声をかけた。息子の合格を心から信じている目をしていた。どうしてそこまで信用できるのか望には分からなかった。
二人は上等高校の正門前にいた。今日は入学試験日で、門内には親子連れの学生が何人もいたが、望は一人だけだった。
母親は一緒に行くと、何度も言っていたが、中三にもなって母親と一緒に歩くなんて恥かしいと望は思っていた。『来たら殺す』と望は言い続けて、三日前に渋々という感じで母親はついてくるのをやめた。他の子もそうしているだろうと思っていたが、みんな親子連れで子ども一人の方が珍しいぐらいだった。
望と同じ学校の制服を着た子が何人かいた。顔は知っていたが名前は知らなかった。数人で固まって話をしている。
校舎の門が開いた。
「試験を受ける方はこちらへ! 保護者の方はあちらへ!」
スーツを着た男が白い息を吐きながら大声を出した。たぶんこの学校の教師だろう。
望が校舎へ向かっていると担任の先生が自分の生徒達の肩を叩いて言葉をかけていた。望は先生に捕まらないように、そっと通り過ぎようとしたが肩を捕まれてしまった。顔を横に向けると先生と目が合った。
「高崎、がんばれよ」
先生はそれだけを言って望の肩を二度叩いた。望はただうなずいた。
教室に入ると、決められた席に座った。近くに同じ制服の子が二人いて、小さな声で話していた。顔は見たことがあるが、やはり名前は分からなかった。望のことを話しているような気がした。
受験生が全員席に着いて静かになると、その二人は喋るのをやめた。
教室に試験官が三人入ってきて、テスト用紙が配られた。学校のテストのような一枚の紙ではなく、プリントを何枚か重ねて綴じた物だ。一番上には数学と書いてあり、その下に受験番号と名前を書く欄があった。
時計が試験開始時刻を指すとチャイムが鳴った。
「それでは試験を開始してください」と試験官が言った。
周りから紙をめくる音が聞こえた。望も氏名と受験番号を書くと一番上の紙をめくった。
望はテスト前に山のような参考書を一週間で通り抜けていた。手のひらぐらいの厚さはあっただろう。今思い返すとちょっと信じられない。
父親は仕事から早く帰ってくると、付きっきりで望の勉強を見ていた。一日のノルマが決められていて、それが終わるまでずっと望の隣に座っていた。さぼる気はなかったが、さすがに何時間も勉強していると頭がふらふらしてくる。それでも父親は休むことを許さなかった。
机に座って何時間も勉強した。不思議とトイレに行きたいとは思わなかったし、お腹も減らなかった。父親からは燃えるような熱気を感じたし望自身も燃えるように熱かった。二人とも顔を真っ赤にして汗をかいていた。
殺してやる。
父親に対して何度かそう思った。それとは逆に殺されるかもしれないと感じたこともある。あと一歩何かを踏み間違えれば、本当に殺し合っていたかもしれない。しかし望はその一歩を踏まずに参考書の山を通り抜けた。
その成果があったのか試験問題は簡単に解けた。試験時間を三十分残して全問解いてしまった。あんなに勉強していたのが馬鹿みたいだ。
あまりに早く解けたので退屈だった。他の子も何人かが退屈そうにしている。数十分その退屈に耐えていると、数学のテストが終わった。
十分の休憩が終わると次のテストだった。そのテストも、その次も、同じように簡単な問題だった。ひょっとすると百点満点かもしれない。
筆記試験が終わると今度は面接だった。最初に十人が教室を出て行った。しばらくするとまた十人が呼ばれて教室を出ていく。望もその中に入っていた。
廊下にパイプ椅子が並べてあって、呼ばれるまでそこに座っているようにと試験官は言った。パイプ椅子に座るとまだ生暖かった。
ドアの開く音がして「失礼しました」という声が聞こえた。そして、遠ざかっていく足音。その全てがやけに廊下に響いていた。
「次の方どうぞ」
試験官が言った。一番端にいた子が立ち上がるとすぐそばの廊下を曲がっていった。しばらくするとドアをノックする音の後に「失礼します」という声が聞こえ、ドアを開ける音がした。
そうやって先に並んでいた子達が面接へ向かった。
次は望の番だ。
「失礼しました」という声が聞こえると「次の方どうぞ」と試験官が言った。
望は立ち上がり、すぐそばの廊下を曲がった。試験官が一人立っていて望を導いた。
望は教室の前に立つとドアを三回ノックした。その後「失礼します」と声をかけると中から「どうぞ」と声が返ってきたので教室に入った。
長い机の向こうに三人の試験官がパイプ椅子に座っていた。望は三人の前に置かれたパイプ椅子のそばまで進むと学校名と氏名を名乗った。真ん中の若そうな男が「どうぞ」と促したので望は椅子に座った。
面接は事前に教えられた通りだった。緊張はしたが詰まらずに答えることができた。
志望動機、今日はどうやってここまで来たか、自分の長所、得意な科目を答えた。意外なことに好きなゲームは何かという質問があった。
試験官は他にもいくつか質問したが、まだ一つ訊いていないことがある。担任の先生が絶対にこれは訊かれると言っていたが、その気配はない。このまま面接が終わるのではないかと望は期待したが、試験官が大きく息を吸って吐いた。
教室にぴりっとした緊張が走ると、望のへその穴がみぞおちまで上がった。面接官が咳払いをする。
「一つ訊いておきたいことがあります。良いですか?」
試験官はことさら優しい口調になった。口元には笑みさえ浮かんでいる。
「はい」と望は答えた。教室の空気がやけに冷たかった。
「あなたは二年生の二学期から学校に行っていませんね。どうしてですか?」
「周りの人と馴染めませんでした。それで学校に居づらくなって、ずっと行けないままになりました」
事前に考えていた答えだ。でも本当のことではない。
「もしこの学校に合格したら通えますか?」と試験官は言った。
「通えると思います。環境が変われば大丈夫だと思います」と望は答えた。
「試験はこれで終わりです。お疲れ様。ここを出たらもう帰って良いですよ」
「ありがとうございました」
望は席を立って教室を出た。それから「失礼しました」と言ってドアを閉めた。
校舎を出ると担任の先生が待っていた。望と同じ制服を着た三人の子が先生を囲んで、騒いでいる。先生は望に気付くと彼らから離れて、そばに駆け寄ってきた。
「どうだった?」と先生は言った。
「まあまあ」と望は答えた。
「受かっていると良いな」
先生が望の肩を叩いた。望はうなずいて先生の脇を通り抜けた。そのすぐ後に「誰?」と誰かが先生に訊いていた。先生がどう答えたのかは聞こえなかった。
正門で母親が立っていた。
「車は?」
望は母親に声をかけた。
「早かったのね」と母親は言った。
「だから車は?」
「ここで待っていたら駐車禁止ですよって怒られたから、ずっと向こうの駐車場に停めてきた」
「それってどこ?」
「あっ、先生じゃない。だいぶお世話になったから挨拶してこないと」
「しなくて良いよ」
「常識がない親だって思われるじゃない。それで困るのはお母さんなんだからね」
母親はそう言うと担任の方へ行ってしまった。挨拶すると言っていたのに世間話までしている。すぐに終わりそうな気配がなかった。
雪がちらちらと降る中で、望は待ち続けていた。歩いて帰ることも何度か考えた。
「あら、いたの? もう帰ったのかと思った」
待ち続けた望に母親は平気でそんな言葉をかけた。
「こんな所から歩いて帰るわけないだろ」と望は言った。
「それなら先生に顔を見せたら良かったのに」
「もう見せたよ」
「あの子達は望君の知っている子?」
母親が担任の先生に顔を向けた。彼の周りにはまだ生徒が群がっていた。
「知らない」
「もし受かったら一緒になるんだし、今から友達になっておいたら?」
「いいよ」
「お母さんが頼んであげようか?」
「そんなことは絶対しなくて良い」
望は声をひそめながらも強く答えた。
それから望は母親と一緒に駐車場まで行った。車に乗ると母親が今日はどうだったか訊いてきた。話すほどのことはないので適当に答えていたら静かになった。
半時間ほど車に乗っていると家に着いた。
家の正面には『タカサキ美容室』と書かれた看板がかかっている。母親が経営している店だ。シャッターには『本日休業』と札がかかっていた。周りと比べると大きな家だが、一階部分は店になっているので、住む場所はそれほど広くない。
裏口から家に入った。というよりも望の家は裏口が正面玄関みたいな物だ。正面から入れないこともないが、店の中を通らなければならない。裏口にちゃんとした玄関を作ろうと父親は言い続けている。
望は服を着替えると母親と二人で早い夕飯を食べた。
父親は望の勉強を見るために早く帰ってきていたので、その埋め合わせをするためか、帰りが遅い日が続いている。
夜の九時になった。風呂を出ても父親はまだ帰ってこなかった。
「お父さん遅いわねぇ」と母親が言った。
望は眠くなった。試験はほんの数時間だったが、手も足も水が詰まったように重い。まだ早い時間だったが、望は父親を待たずに布団に入るとすぐに眠った。
望は鏡の前に座っていた。母親が後ろに立って望の髪をカットしている。月に一度の恒例行事だ。望はおしゃれな髪型にされるのが嫌だった。周りと比べると変に目立つのだ。
「そろそろ来ても良いんじゃない?」と母親が言った。試験を受けてから一週間経ったが試験結果はまだ来なかった。
「ダメだったかもね」と望は言った。
「まあまあだったんでしょう?」
「まあね」
「なら大丈夫よ、あんなに勉強していたんだもの」
仕上げの段階に入ると、店の奥から大橋さんが顔を出した。
「おはようございます、高崎さん。おはよう、望君」
大橋さんは母が雇っている美容師さんだ。もうこの店で三年働いている。
「そろそろ来ましたか」と大橋さんは言った。
「それがまだ」と母は答えた。
「望君はきっと受かっていると思います」
「そうかしら。あれだけ必死に勉強したんだから受からないと損よね。でも落ちていたらどうしよう。ここで働く?」
母親が望をからかった。
「お姉さんだっているわよ」と大橋さんまでからかってくる。
「そんなことは絶対にない! 絶対に受かってる!」と望は言い切った。体が熱い。鏡を見ると顔が真っ赤になっていた。
「ほんの冗談じゃない。そんなにむきにならなくてもいいでしょ」と母親が笑った。
「かわいいわねぇ」と大橋さんまで笑っている。
望は体にかかっている布を剥がして立ち上がった。鏡を見る。やっぱりおしゃれな髪型だった。
望は体を熱くしながら自分の部屋に戻った。「髪は自分で洗うのよ」と母親の声が背中を追いかけてきた。
部屋に戻った望は窓から遠くの山を見ていると、遠くの道で制服姿の学生が自転車を漕いでいた。今日は学校のある日だが望は行かない。今日だけではなくもう一年以上学校に行っていない。
望は窓のカーテンを閉めた。胸がざわついていた。
開店時間になるとすぐに店のドアが開いた。母親の店は繁盛しているわけではないが、いつも客は入っていた。
昼にツナサンドを作っていると、大橋さんが入ってきたので一緒に食べた。彼女は望が学校に行っていないことについて何も言わない。
ツナサンドを食べ終わると紅茶を二杯淹れた。
紅茶を飲んでいる途中で壁を叩く音がした。母親が大橋さんを呼ぶ音だ。大橋さんは紅茶を半分残したまま「ごちそうさま。ありがとね」と言って店に戻った。
望は紅茶を飲み終えると、食器を洗った。
テレビでドラマの再放送を見ていると今度は母親が入ってきた。望は冷蔵庫からラップで包んだツナサンドを出して湯を沸かした。大橋さんも母親も普段はうるさいぐらいに喋るのに仕事中だとほとんど喋らない。紅茶を飲むと母親は店に戻った。
昼に続いて二杯目の紅茶を飲み干すと望はまた食器を洗った。
夕方五時になるとシャッターの閉まる音がした。
店から母親の呼ぶ声がする。望が顔を出すと、母親は細長い封筒を手渡してきた。表には上等高校と書いてある。望はそれをしばらく手に持ったままでいた。
「開けないの?」と大橋さんが言った。
「うん」と望は曖昧に返事をした。
「私が開けてあげる」
母親は望から封筒をもぎ取ると、はさみで封筒を切った。中から白い紙を出して望に渡す。
望はその紙を開いた。両脇から母親と大橋さんが覗き込んだ。
「合格って、ことですよね?」と大橋さんが言った。
「ここに合格って書いてある」と母親が指差した。
「やったじゃない、望君!」
「やった!」
母親と大橋さんがはしゃいでいたが、望は嬉しさよりも不安を感じていた。
上等高校に受かったということは、四月からここへ通わなければならないということだ。中学校に通うこともできていないのにできるのだろうか?
面接では環境が変われば通えることができると口に出してしまったが、本当にそうなのかは自分でも分からなかった。
※
事の始まりは中学二年の二学期、十月の初めだった。望は風邪を長く引いて一週間学校を休んだ。仮病でもなんでもなく本当の風邪で、布団で横になっていると天井がぐるぐる回っていた。熱は土曜日に平熱に戻った。
週が明けて月曜日になると望は朝ごはんを食べて制服に着替えた。そして部屋を出ようとすると学校に行けなくなっていた。
母親は声を上げて何度も学校へ行くように促した。始業時間が近付くと気が狂ったような甲高い声になった。それでも望は学校に行けなかった。学校に行かなければと思っているのに体が動かないのだ。
その状態のまま開店時間になったので「遅刻してもいいから学校へ行きなさい」と言って、母親は店に出た。
望は制服を着たままベッドに座っていた。
十時に学校から電話がかかってきて、望がまだ学校へ行っていないことを母親は知った。母親は大橋さんに店を任せて部屋に入ってきた。
母親が最初にしたことは望の頭をひっぱたくことだ。目が釣り上がって燃えるような目をしていた。一時間以上強い言葉と手が望の頭に降ってきた。それでも望は学校に行けなかった。結局その日は「欠席します」と母親が学校に電話をした。今日は学校へ行かなくても良いのだと分かると胸が軽くなった。
その日の夜、母親が父親に望が学校へ行かなかったことを話した。
「まだ本調子じゃないんだ。明日は大丈夫だろう?」と父親が軽い調子で言った。望はうなずいた。その時は明日こそ学校に行くのだと思っていたが、次の日になるとまた体が動かなかった。
朝起きてごはんを食べる。歯を磨く。そこまでは何でもないのに、制服に手をかけた途端に手の動きが鈍くなった。それでもゆるゆると制服に着替えるのだが、さあ学校へ行くぞとなるともうダメだった。手も足も動かなくなる。学校へ行かなければという気持ちが胸で止まり、手足に伝わらないのだ。
母親は昨日と同じように怒鳴りつけた。それでも望は動けなかった。頭を叩かれたが、その時だけは頭を防御するために手が動いた。
店の開店時間になると母親は手を止めて「今日は学校に行くのよ」とドアを開けたまま店に出た。
しかし、望は学校に行かなかったので、昨日と同じように学校から電話がかかってくると、母親は「今日も学校を休みます」と言った。望は開いたドアのからその声を聞いていた。
それが三日続くと、さすがに父親もおかしいと気付いたようで、望をリビングに呼ぶと「母親には話せないこともある。ここは男同士で話すから」と母親を部屋から閉め出した。
父親はまず望を座らせた。それから父親はすぐ目の前に座ると「どうして学校に行かないんだ?」と真剣な顔で言った。望は自分でも理由が分からないのでずっと黙っていた。
「いじめられているのか?」と父親は言った。望は首を振った。
「友達と何かトラブルでもあったのか?」と父親は言った。やっぱり首を横に振った。
「成績のこととか?」と父親が言った。それも違うので首を振った。
「それじゃあ何の悩みがあるんだ」
父親はうんざりという感じで言葉を吐いた。学校に行かなければならないのに学校へ行けない。それが悩みだったが、今訊かれているのはその理由で、その理由は自分でも分からなかった。望はずっと黙っていた。
「何も言わなきゃ、何も分からん。いつもみたいに喋ったらどうだ」
父親がきつい口調になった。しかし、何も頭に思い浮かばないのだから喋りようがない。その場を言い逃れる嘘ですら思いつかなかった。
「親をからかうのもいいかげんにしろ!」
望がずっと黙っているので父親が怒鳴った。
「普段は生意気な口を叩くのに、こんな時だけ神妙にしている。おかしいじゃないか! 誰かに舌を引っこ抜かれたのか? そもそもお前は、いや、お前に限らず最近の若い奴は世の中を舐めている! 俺が若い頃はもっと真剣に毎日を生きたものだ! もっとしっかりしろ!」
望は父親の言葉をただうつむいて聞いていた。望は指一本動かさなかったが、胸の中は今すぐこの場所から飛び出したいほど揺れていた。
「おい、人の話を聞いているのか! 人が話している時はこっちを向け!」と父親が怒鳴った。さぞ怒っているだろうと、望が恐る恐る顔を上げると、父親は今にも泣きそうな顔をしていた。
その顔を見ると何故か涙が出てきた。まさに流れたという言葉がぴったりで、声も出さず体も震わせず、ただ熱い涙が目からあふれて顔の表面を流れていった。
「なんで泣くんだ。そんなにつらいことがあるのか。父さんに言ってみろ」
泣いている望を見て父親が言った。さっきまでの強い口調は消えていた。望は手で顔をこすったが涙はまだ出てきた。
「泣きたいのはこっちだ……」
父親はつぶやくとそれっきり黙ってしまった。
二人とも長い間黙っていたが、先にしびれを切らしたのは父親だった。彼は息を吸って体を動かすと、柔らかい声で喋り始めた。
「実を言うとな。父さんだって学校には行きたくはなかった。それでも我慢して行った。俺だけじゃない。他の子だってそうだ。お前がそう思ったって不思議じゃない。お前はただちょっと疲れただけだ。若い時は無限に元気があると思ってしまうものだから、つい自分の限界を越えてがんばってしまうんだ。なに、休んだのはほんの一週間ぐらいだ。ちょっとした秋休みと思えば良い。だから明日も休め」
父親が意外なことを言ったので望は顔を上げた。
「心配するな。母さんと学校には父さんが言っておく。だから明日は心と体をしっかり休ませろ。それで明後日学校へ行けばいい。明後日は金曜だ。次の日が休みと思えば気持ちも楽だろう?」
金曜日に学校へ行けるとは思えなかったが望はうなずくしかなかった。ここで首を横に振れば何が起きるか分からない。
「そうか。それじゃあ明後日からがんばるんだぞ」
それで話は終わった。
父親とリビングを出ると母親が待っていて、望に何か話しかけようとしたが父親がそれを止めた。望には「今日はもう寝なさい」とだけ言って、母親と二人でリビングに入った。何を話すのか気になったが、布団に入って目をつぶっていると、あっという間に朝になった。
「今日はちゃんと学校を休むんだぞ」
朝食の席で父親が言った。母親がわざとらしいため息をついた。朝ごはんを食べ終えると、父親が「今日も息子は休みます」と学校に電話した。それを聞くと朝の早いうちから体が軽くなった。
その日は特に何をしたわけではないが、夕方になると体の芯から元気が湧いてきた。その気になれば空を飛べそうな気さえした。これなら学校へ行けると確信して、母親には「明日は必ず学校へ行く」とさえ断言した。
しかし、次の日になるとその気分はどこかに吹き飛んでいた。
「今日はちゃんと学校へ行くんだぞ」
望が食卓に顔を出すと父親が言った。朝ごはんを食べると父親は仕事へ行った。
望は歯を磨いて制服に着替えた。そうするとまた体が動かなくなった。制服を着たままベッドに座っている望を母親は発見して、学校へ行くようにと怒鳴った。開店時間の九時が来ると店に出た。十時に学校から電話がかかってきて、今日は休みますと母親が言った。何も変わらなかった。
夜、父親が帰ってくると一連の出来事は母親の口からすぐに伝わったようで、荒々しい足音が部屋に近付いてきた。部屋に入ってきた父親はまだネクタイを締めたままで目が燃えるように光っていた。
「どうして学校へ行かなかった! お前は嘘つきだ!」
父親は開口一番にそう怒鳴った。次に母親が入ってきて二人並んで説教した。父親の口が止まれば母親が、母親の口が止まれば父親が。かなり長い時間説教された。最後に罰として今日の夕飯は抜きということが告げられたが、望はむしろほっとしていた。夕飯抜きなら両親と同じ食卓につかないで済む。夕飯を食べないことぐらい何でもなかった。
土曜日は両親と顔を合わせないようにずっと部屋にこもった。ごはんを食べる時は飲み込むように食べて、すぐ部屋に戻った。
「明日は学校へ行くんだぞ」
日曜日の夜に父親は言った。あまり強く言われなかったので望は曖昧にうなずいた。部屋に戻ると一応の準備をしてベッドに入った。頭が燃えているようでなかなか眠れなかった。
次の日、父親は朝ごはんを食べるとスーツに着替えたが、なかなか仕事に行かなかった。
「今日は学校へ行くんだぞ」と父親は言った。望は小さくうなずいた。朝ごはんを食べて歯を磨くと、部屋で制服に着替えた。そうするとやはり体が動かない。金縛りやしびれとかではなく学校へ行こうとする意志を体が受け付けなかった。
「なんだ、もう制服じゃないか。今日は行く気なんだな」
父親が望の部屋に入ってきた。父親がまだ仕事に行っていないことに望は驚いた。
「それじゃあ、お父さんと一緒に学校へ行こう」と父親が言った。
父親に学校へ行くように言われてもやはりダメだった。学校へ行かなければという気持ちはあるのだが体が動かなかった。
『なんでじっと座っているんだ。学校へ行くぞ』
『もう二週間も学校へ行っていないんだ。そんなことで良いと思っているのか』
『お前がそんなに怠け者だとは思わなかった』
『学校にだって楽しいことはあるぞ。友達だっている』
『月曜日は何かをやり始めるのには良い日だ』
父親は色んなことを言ったがダメだった。望は高い崖のふちに立たされて、ここから飛んでみろと言われているような気分だった。
「なあ、どうしてダメなんだ。お前が何も言わないから父さんにはさっぱり分からん」
言葉が尽きたのか、ほとほと疲れた様子で父親が言った。
「分からない」とだけ望は答えた。
「分からないってどういうことだ」
「僕だって分からない」
「自分のことなのに理由が分からないなんてことがあるか!」
父親の言うことは正しい。望も同じ意見だった。でも分からないものは分からない。激しい感情が胸から上がってきて涙が出てきた。
望が泣き止むのを待って、父親はゆっくりと口を開いた。
「なあ、望。正直に話してみろ。さっきはお前のことを怠け者だと言ったが、あれは言葉の弾みだ。本当はお前がそんな子じゃないということを父さんは知っている。あやまる。すまなかった。今までずっと真面目で良い子に育ってきたお前が、こうまでして学校に行けないということは何か大変なことが起きているんじゃないか? そりゃあ、父さんは何でもできるというわけじゃないが、話してみれば何か解決策が出せるかもしれないじゃないか。父さんがダメなら母さんもいる。母さんでもダメなら先生だっている。先生がダメなら……とにかく大人はたくさんいるんだ。お前の胸の内を吐き出してみろ」
父親にそう言われても出るのは涙だけで、言葉は一つも出なかった。
「父さんはもう仕事に行く。今日は遅刻だ」
父親はそう言うと仕事に行った。その日は心も体も軽くなることはなく、望はベッドで横になり一日中天井を見ていた。
その日の夜、壁越しに両親が何か話しているのが聞こえた。
次の日は何故か学校に行けと言われなかった。
さらに次の日、両親は不登校児の子どもを持つ親のセミナーという会に行った。それ以来学校へ行けとは言われなくなった。言ったとしても間接的にやんわり伝えてくるだけだ。今でもそのセミナーには通っているようだ。
学校からは毎日電話しなくても良いから学校に来る時に電話してくださいという電話があった。
それから両親は学校に電話をかけていない。通っていた塾はやめた。
中学三年の九月、担任の先生から絶対に受かると言われていた地元の高校はかなり厳しいと告げられた。その代わりに上等高校という学校を勧められた。
この時の望は十五歳になれば、どこからか大きな風が吹いてきて、この世から消えるのだろうとぼんやり考えていた。将来のことなど全く興味はなかった。しかし担任が強く勧めるし、両親もこの時ばかりは熱心に説得してきたので、その熱さに負けて受けると言ってしまったところがある。どうせ落ちるだろうとも思っていた。
※
そんな事情があったので四月からこの高校へ行けるようになるとは望には思えなかった。
夕方、裏庭に車が入ってくる音がした。しばらくすると裏口を叩く音がした。
「こんばんは」
威勢の良い声がした。担任の先生だ。母親が裏口に出て何か話をしている。
しばらくすると母親が呼んだので望は裏口へ降りていった。
「よう、高崎。元気か」
望の顔を見ると担任の先生が手を上げた。彼は週に一度家にやって来る。特に何をするでもなく、ただ顔を見に来るという感じだ。
「上等高校受かったんだってな。学校にも連絡があった。おめでとう」
「うん」
「中学は学校に来ることはできなかったが、高校で環境が変わればきっと大丈夫だ」
「中学だってまだありますよ」
「なら、最後にちょっとだけ来てみるか?」
「いや、行かない」
望が笑うと「こらっ」と母親がたしなめた。
「いや、良いんです、お母さん。以前はこんな話をすると黙ってしまいましたから。こうやって返事をしてくれるのは彼の気持ちが前向きになってきた証拠です」
「そうでしょうか」
「ええ、お母さんは毎日顔を合わせるから気付かないのかもしれませんが、私は週に一度ですから彼の変化がよく分かります。今は学校に通っている普通の子と何の違いもありませんよ。あと一つ何かきっかけがあれば間違いなく学校に来られるはずなんですが」
「先生が担任になられてから、まだ一度も行っていないので申し訳ないです。こうして何度も足を運んでくださるのに」
「なに、ここへ来るのはほんの寄り道です。ここから家は遠くないし生徒の面倒をみるのが教師の務めですから。それに私も彼の顔を見ておきたいし」と先生は言った。
それからまた大人同士の世間話になった。
誰それがどこへ行った。来週はどこそこの高校で試験があるとか、そんな話が多い。その中には望が行くはずだった高校の名前も出てきた。その時だけは三人とも変な雰囲気になった。
「じゃあな、高崎。先生もみんなも待っているからな」
世間話が終わると、最後に先生が声をかけてきた。
「いや、行かないと思う」と望は返した。
「そうか。その気になれば、いつ来ても良いんだぞ。お前の学校だからな」
いつものやりとりを終えると先生は裏口から出ていった。母親が見送りに出る。望は自分の部屋に戻ると窓から先生を見送った。先生は望に気付くと手を上げたので、望も手を上げ返した。
別の日、望は朝ごはんを食べると歯を磨いて制服に着替えた。それから部屋でじっとしていた。先生が言うようにあと少しだと自分でも思う。あと一つ何かきっかけがあれば学校へ行ける。しかし体は動かない。学校へ行こうとする意志を体が拒絶していた。
その状態のまま始業時間の九時が来た。やはり今日もダメだった。調子の良い日はこうやって学校へ行こうとするのだが、それが成功したことは一度もない。九時を過ぎると望は制服を脱いだ。
十一時におにぎりと玉子焼きを作って、早めのお昼ごはんを食べた。母親と大橋さんの分も作って冷蔵庫に入れておく。一人分作るなら三人分でも手間はそう変わらない。
『冷蔵庫の中にうまいおにぎりと玉子焼きあり!』
机にメモを置くと、望は自転車に乗って外に出た。外は快晴で風は冷たかったが、自転車を漕いでいると暑いぐらいだった。
絶対に誰とも出会わない時間。それは学校のある時間だった。先生も同級生もみんな学校にいて、外にいるのは知らない大人達ばかりだ。その時間に望は外に出る。行き先はコンビニか本屋か図書館のどれかで、必ず隣の市まで出て行く。行き先が決まっていない時はただ遠くまで走り続ける。
今日は図書館へ行って二時前まで本を読んでいた。
望は帰りに学校を遠くから横切った。外へ出た時はこうやって遠くから学校を見る時がある。
どこかのクラスが運動場でサッカーをしていた。運動場の端では三人の不良が授業をサボっている。
不良達ですら学校に通っている。その分だけ不良の方がマシな人間だと望は思った。望は不良ですらない。不良以下のクズと呼ぶのがふさわしい本当の意味での最低人間だ。そうやって自分を卑下していると何故か奇妙な快感があった。
家に帰ると足が伸びきったゴムのようになっていた。それに今日は晴れていたので全身汗びっしょりになった。
冷蔵庫を開けるとおにぎりと玉子焼きがなかった。母親と大橋さんは望の作った昼飯を食べたようだ。
冷蔵庫からジュースのペットボトルを取ると自分の部屋に行った。
汗で濡れた服を脱いでジュースを飲んでいると、ずっと遠い道で学校帰りの学生の姿が見えた。望はくるりと回って窓に背を向けた。
夕方に担任の先生が来た。母親は店の片付けをしていたので望は先生と二人で裏口に座って、他愛もない話をした。
「もうすぐ卒業だな。お前だけじゃなく、クラスのみんなも進路が決まってほっとしたよ」
「受験に失敗した子はいる?」
「まあ、何人かはいたさ。椅子の数は決まっているから誰かが落ちるのは毎年のことだ。だけどその子達も別の進路を見つけたよ」
「僕が落ちていたらどうなっていたかな?」
「受かったんだからそんなこと言うなよ。胃に穴が開く」
「元々胃に穴は開いています。それも二つ」
先生は始めぽかんとしていたが、しばらくして意味が分かったのか笑いだした。
「お前って面白い奴だな。一緒に学校生活を送れなかったのが残念だよ」
先生は本当に残念そうに声を漏らした。
「すいません」
望も声を落とした。それで二人の会話が途切れた。
しばらく長い沈黙が続くと、先生はひとつ深呼吸した。
「なあ、高崎。今日は卒業式の予行演習をしたよ。俺は壇上に上がってお前の名前を読んだ。返事はない。いないんだから当然だよな。でもちょっと寂しかったよ。俺はな、できたらクラスの全員が揃って卒業できたらと思ってる。俺がお前の名前を読む。お前がそれに答える。お前だけじゃない。クラスの全員が揃って……いや、強制するわけじゃないんだ。ただそうだったら良いな、とお前に伝えておきたかった」
また先生が寂しそうに声を漏らした。望には返す言葉がなかった。
「じゃあな、高崎。すまなかった」
先生は用事を思い出したように腰を上げた。今日は母親がいないので望が先生を裏庭まで見送った。
それからも先生は家に来たが、卒業式の話も学校に来いとも言わなくなった。望とただ世間話をしていくだけだ。
そうやって日を重ねて卒業式の日になった。最後に卒業式が残っているがドラマみたいに最後の日だけ登校する気にはなれない。両親も無理して行かなくて良いと言った。
さすがにこんな日はどこへ行く気にもなれず、ずっと家にいた。
あっという間に時間が過ぎて昼になった。卒業式はもう終わっただろう。卒業式に出席しなくても中学校は義務教育なので、望も自動的に卒業となる。中学生活は終わったのだ。
店が休みなので、母親と一緒に昼ごはんを食べた。母親は寂しそうだった。
昼下がりになると家の外はいつものように静かになった。あんなに重苦しかった中学校も、いざ卒業してしまうと何だか宙ぶらりんになった気がする。
夕方になった。裏庭に車が入ってくる音がする。いつも聞いている音なので先生だと分かった。
「こんばんは」
裏口から威勢の良い声がする。やっぱり先生だった。
望が下へ降りると、母親と礼服を着た先生がいた。
「よう、高崎」
望と目が合うと先生が言った。手には黒い筒を持っている。卒業証書だろう。
「これを渡そうと思ってな」
「わざわざすみません」と母親が言った。
「なに、教師の役目ですから。それじゃあ……」
先生は筒から紙を出すと、それを両手で持ち「卒業証書」と改まった声を出した。
「ちょっと待ってください。ここじゃなんですから表の方へ」と母親がそれを止めた。
先生は一度息を吸うと「それもそうですね。お店の方でしますか?」と言った。
「ええ」
母親は店の方へ行った。先生も裏口から表の方へ行った。
望も店の方へ行った。昨日掃除をしたままの店内はひんやりとしていた。髪の毛一本も落ちていない床が蛍光灯の明かりを反射して筋状に白く光っていた。
母親がシャッターを開けると、礼服を着た先生が待っていた。裏口で見るよりしゃきっとしていた。
「それじゃあ、ここでしますか」
先生は店の真ん中に立った。
「俺が名前を呼ぶから、そうしたら返事をして俺の前まで来てくれ」と先生は言った。ここで卒業式をするようだ。
先生が息を大きく息を吐いた。
「高崎望」と先生は言った。
「はい」と望は返事をした。
店の中央の開けた場所で先生と向き合って立った。母親はその脇に立っていた。先生は一つ咳払いをすると背筋を伸ばした。
「高崎望殿。あなたは本校の全過程を修了したことを証し、ここに卒業証書を授与します」
先生が証書を読み上げていった。最後に今日の日付と、久しぶりに聞いた学校名と、初めて聞いた校長の名前を読み上げて証書を望に向けた。
望はそれを両手で受け取った。
「卒業おめでとう」
先生はそう言うと、いつもの先生に戻った。
母親は涙ぐんでいた。先生もそうだ。望も胸の奥に熱い物を感じていた。しかしそれでも三人は店のソファーに座って、いつものように他愛もない話をした。そしていつもと同じぐらい話をすると先生は腰を上げた。
「それじゃあ帰ります。お母さん、一年間本当にお世話になりました」
「いえ、こちらこそ。何度も足を運んでくださったのに結局こんなことになってしまって申し訳ありませんでした。こちらこそ大変お世話になりました」
母親が頭を深く下げる。先生は慌てて、それを止めた。
「望君のような子は初めてですよ。学校に来ない子がいないわけじゃないんですが、学校に行くふりをして別の場所に行ったり、家に来ても顔を見せてくれなかったりしますから。その点、望君はいつも顔を見せてくれるし、素行が悪くなるということもなかった。私にとっても新しい経験でした。私が担任になってからも学校に来させることはできませんでしたが新しい環境になればきっと大丈夫です」
「そうでしょうか?」
「大丈夫です。あと一つきっかけがあればといつも思っていたんです。私にはそれが見つけられませんでした。でも環境が変わればきっとまた学校へ行けるはずですよ」
「そうなってくれるといいんですけど」
「大丈夫だよな、高崎」
先生が望の肩に手を乗せた。太くて硬い大きな手だった。
「うん」と望は答えた。
「じゃあな、高崎。俺は学校にいるから、またいつか学校に来いよ」
望は母親と二人で先生を見送った。先生の車が見えなくなると何か大きな物が胸から抜け落ちたような気がした。