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かつては東京のある会で表彰されるほど優秀だった正文は落ちぶれようとしていた。
そんな時彼は肉体労働に従事している長谷川さんと出会う。
二人の共同生活が始まると、正文は長谷川さんの心と体がクスリに侵されていることを知る。
正文は長谷川さんを救うために自分もクスリを飲むことにした。
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5‐1 真面目な女の子はモテない(そんなことはない)
「ただいま」
仕事から帰ってくると、正文は部屋の中に声をかけた。心なしか狭くなったような気がする。
「おかえり」と長谷川さんの声が返ってくる。キッチンで何かを炒めている音がする。彼女は一昨日から正文の部屋にいた。
部屋に入るとダンボール箱がいくつかあった。一度自分のところに戻って、色々持ちこんできたようだ。
「すぐに片付けるから。しばらく我慢して」
「何作ってるの?」
「おかゆじゃないよ」
「それは分かるけど」
「できてからのお楽しみ。もうすぐできるから着替えてきて」
仕事から帰ってきても着替える習慣はなかった。風呂に入るまではスーツを脱いでいる。風呂に入ればパジャマだ。部屋着など持っていない。休みの日も出かけない日はパンツ一枚で過ごしている。冬は体に毛布を巻いていた。服といえばよそ行きの服しかないのだが、長谷川さんの言う通りに着替えると「あれ、これからどこか行くの?」と彼女は驚いた。
「いや、服はこれしか持っていなくて」
「森君って面白い」
「そうかな、どこが?」
長谷川さんはにんまりするだけで何も答えなかった。正文はよく分からないままTVを見ていた。それほど集中して見ていたわけではなく、ケチャップが焼けるにおいを嗅いでいた。
「できたよ~」
夕飯には長ナスのナポリタンが出てきた。思わず声が出るほど美味いわけではないが、腹の中にぐっと染み込んでくる家庭的な味がした。
「今日は仕事どうだった?」と長谷川さんが訊いてきた。
「まぁ、そこそこかな」と正文は答えた。本当はかなり良かった。昨日からその予感はあって今日仕事へ行くとあっけないほどうまくいった。取引先では言葉が自然に出てきて、あと三回は訪問しなければと思っていたところを今日中にまとめてしまったところもある。
それより驚いたのは、商談がまとまり雑談に話が逸れた時だった。今まではスーツの下に汗をかきながらこなしていたことが、今日は涼しい気持ちでやり通せた。それどころか話していること自体が面白いと感じた事さえある。
「森さん、調子良くなりましたね」
今日は部下の“できるヤツ”からそんな言葉が出てきた。正文がちゃんと仕事をしたので声も表情も明るくなっていた。
「もう駄目なんじゃないかなって思っていたんですよ。先週なんてひどかった。俺、今まで森さんのこと尊敬しているところがあって、それであんなになっていて・・・・・・いや、すみません。人間だからうまくいかない時もありますよね。てっきり無敵の人だと思っていました。やっぱり森さんも人間なんだ」
「俺は人間だぞ」
「喩えです。隣で見ていて、とても真似できない、同じ人間とは思えないぞってビビるぐらいでしたから」
「誰にだってそんな時はある。問題はそこをどう乗り越えるかだ」
「ちょっと自信がないな。俺もそこそこやれるとは思いますが、森さんみたいにはとてもなれない」
「そんなことはない。俺も今ぐらいできるようになったのは一人で色々やれるようになってからだ。誰かが上にいると、あるところからは成長できないようだ。お前も一人でやるようになれば今よりずっと伸びるよ」
「そんなものですか?」
「俺も通った道だからよく分かる。お前はこれからずっと伸びる、絶対に伸びる。俺より伸びることだってあるだろう」
「いや、それは無理ですよ」
元に戻ったとはいえ、あまりの変化に自分でも恐ろしくなった。この一ヶ月で最高と最悪の状態を行き来した。もしかすると今の状態が異常で、いつか元に戻って失敗するのではないかと正文は怯えた。
「どうしたの? やっぱりまだ調子悪い?」
フォーク持ったまま動かない正文に長谷川さんが声をかけた。
「いや、今の自分が本当の自分なのかなって不安になった。今日は調子が良すぎて。今までが悪すぎたせいかな」
「わたし、今までの森君を知らないから。でも病気じゃなさそう。最初見た時はどこか疲れてた」
「今は?」
「病気でもなければ元気一杯でもない。普通かな」
「普通かぁ・・・・・・」
頭では理解できたが心はまだ先週と同じだった。こんなにあっけなく普通に戻るなら、何かの拍子にまた最悪の状態に戻る事もありえるのだ。そんなに変わりやすい物なら普通とは一体何だと考えてしまう。
「ほら、冷めちゃうから。早く食べちゃって」
長谷川さんはいつの間にか皿を平らげていた。
正文はナポリタンにがっついた。味がどうこうではなく長谷川さんが作ってくれた物を食べたという感じが強い。月並みな言い方だが、心がこもった物を食べたという感じだ。考えてみればもう何年も他人の手料理を食べた記憶がない。お盆や正月に実家へ帰ると大抵店で買ってきたものや、取り寄せた物が出てくる。
「そんなに美味しかった?」
長谷川さんの問いに「うん」と正文はうなずいた。
それから食器を洗って風呂に入った。長谷川さんも正文の後に入って、火照った体で出てきた。血色の良くなった太ももから湯気が出ているのを見て、胸がドキッとした。
TVを見ている間、お互いに独り言のように話しかけて、それに独り言のように返事をしたり、あるいはしなかったりした。九時のドラマが終わると長谷川さんは頭に巻いていたタオルを外して、ドライヤーで髪を乾かし始めた。
はっきりと言葉にしたわけではないが、長谷川さんは何故か正文の部屋に居着いている。一昨日から長谷川さんの物が徐々に増えていて、ドライヤーもそのひとつだった。
「森君、明日も仕事?」
「うん」
「それじゃあ早く寝なきゃね」
正文がベッドに入ると当たり前の様に長谷川さんもベッドに入ってきた。部屋の明かりを消すと二の腕や太ももに触れるか触れないかの距離で横になる。昨日もそうで、そのまま何もせず眠りについた。
どうしてこうなっているのか分からなかった。昨日の朝、長谷川さんが部屋にいて、いつ帰るのだろうかと思っていると、そのまま夜になった。途中で買い物に出かけたがそこでも一緒だった。
今日になると一緒に暮らすという雰囲気が強くなっていた。それでもいつ帰るのかとは口に出せなかった。もしあえて口に出せば帰る場所はここだと言い返されそうな気がした。そこまではっきり言葉にされると、ずっとここにいるか、出て行って貰うかを決断しなければならないような気がしてやはり口は重くなった。
長谷川さんとは何がどうとはっきり決めずに曖昧な状態のままでいたい。しかし、今の状態が続けばずっとここで一緒に暮らすようになるかもしれない。悪くはないが、面倒だという気持ちもある。最悪のところから抜け出せたのは長谷川さんのおかげだという自覚はあるのに、そんなことを考える自分に罪悪感があった。
ふと長谷川さんが正文を見ているような気がした。確かめるように頭を横に転がすと、しっかり目を開いている長谷川さんと目が合って、体が揺れた。
「どうしたの?」と正文は訊いた。声をひそめたつもりだが天井に響くほど大きな声が出た。
「しないのかなって」
長谷川さんはじっと正文を見たまま答えた。
「何を?」
「昨日もしなかった」
「そういうことはしちゃいけないと思って」
「どうして?」
「自分でも分からない」
「変なの」
正文は頭を元に戻して目をつぶった。長谷川さんはどうしているか分からない。時計の秒針がチチチチと正文を急かすように音を立てている。
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