ペンギンと太陽 リリース記事



ペンギンと太陽/牛野小雪 kindleストア

 ルル子さんは世界をまたにかける鮫島商会の一人娘で超お金持ち。
そんな2000年に1度のヴィーナスと僕は結婚する。
伝説を作ったり、赤ちゃんができたり、戦争があったりもするが新婚旅行で北極にオーロラを見に行った二人は氷床を目指す巨大なクジラの影を見る。

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まえがき 普通ではない読書体験


 これから『ペンギンと太陽』を読む人に提案があります。本文中で気に入った、あるいは何かをひらめいた言葉やフレーズを発見すれば、読書を中断してtwitterにその部分を書き込むことをおすすめします。あなたのコメントを添えることも強く推奨します。ツッコミもアリ。twitterなんてしていないよ、という人はブログやメモ帳、チラシの裏でもかまいません。あるいはkindleのハイライト機能でも。

“南国の正午に太陽は音もなく地上を焼き、一切の影を蒸発させる。南極では沈みかけの太陽が一日中浮かび、大地は一年中雪と氷に覆われている。”
この冒頭最高だな。
#ペンギンと太陽 


 こんな感じで(自画自賛ですみません)。いま私は変なことをしていると思えてきたら、この本にそうしろと書いてあったと言い訳すればいいのです。引用符(ダブルコーテーション)をつけたり、ハッシュタグをつけたりはしなくてもいいかも。そこはあなたのご自由に。

 私は普通に小説が読みたいんだという人はもちろん無視してもかまいません。でももし気が変わったら試してみるのも一興です。そんなに長い本ではありません。きっと今までにない読書体験を味わえますよ。

 と、こんなことを書いたのはウィルスのようにコピーされて拡散すれば世界中に広がるかもしれないと考えたからです。これはただの社会実験で、あなたが付き合う義理はないですが、付き合ってもいいという好奇心の強い人がいたならば、手伝っていただけるとありがたいです。もし『ペンギンと太陽』がベストセラーになったならば、出版社を通さなくても一人の人間がセルフパブリッシングで世界と立ち向かえるという前例になれるでしょう。方法はどうであれ。よろしくお願いいたします。

試し読み

1 火星のペンギンは人間のふりをする

 南国の正午に太陽は音もなく地上を焼き、一切の影を蒸発させる。南極では沈みかけの太陽が一日中浮かび、大地は一年中雪と氷に覆われている。そこはあまりに寒すぎるので世界中で猛威を奮ったコロナウイルスでさえ小さく縮こまっている。いつかは氷が溶けて、生物大爆発の時が来るかもしれないが今は命が凍る白と青の世界だ。しかしどんなものにも例外がある。皇帝ペンギンだ。彼らは子どもを産む時期になると、海から上がり、氷の上を何十キロも、時には百キロ以上も歩いて南極の営巣地を目指す。人間なら子作りのたびに夫婦揃って冬の富士山に登るようなものだ。そんなことをした夫婦は神話の世界でも見つからない。しかも彼らは出産後もヒナが大きくなるまでは雪と氷の世界に立ち続ける。オスは半年近くも飲まず食わずだ。それどころか体から絞り出した栄養をヒナに与える時もある。飲む方は雪があるのでしのげるかもしれないが食べ物は本当に何もない。南極はウイルスさえ育たたない不毛の大地だ。どんな動植物も存在しない。唯一の例外は、でっぷり太った同族達だが皇帝ペンギンはどんな苦境に立たされても(しん)()の振る舞いを崩さない。きっとイギリス人はペンギンから進化したに違いない。(えん)()(ふく)を発明したのはイギリス人だ。あの服はどこかペンギンに似ている。先祖の姿がDNAに刻まれているんだ。ペンギンブックスはイギリスの出版社だ。疑う余地はない。イギリス人は(じん)(るい)ではなく(ちょう)(るい)だ。日本人も(めい)()()(しん)(ブン)(メイ)(カイ)()が起きると燕尾服を着るようになったが、それ以前は(もん)(つき)()(おり)(はかま)だった。あのふさふさした感じはニワトリそっくり。()()()はトサカの()()り。日本にニワトリブックスはないが『ひよこクラブ』という雑誌はあるので『ニワトリクラブ』もきっとあるだろう。もちろん日本人も人類ではなく鳥類だ。それだけじゃない。アメリカ人も、中国人も、どこの国の人間もみんな鳥類だ。


 こんなことをいうと科学界から()(たん)(しん)(もん)にかけられそうだが人間が猿から進化したなんて絶対に間違っている。恐竜→鳥→人間と進化したに違いない。三種の共通点は二足歩行。トリケラトプスみたいな草食恐竜は四足だが肉食は二足だ。このことから人間はティラノサウルスやラプトルの系列だと推測できる。どちらも恐竜界の人気者だ。


 動物園で猿と鳥の数を比べれば鳥が多い。ペットでも猿より鳥が多いはずだ。肉の生産量もたぶん鳥が一番多い。この人間の奇妙な鳥好きな傾向は人間が鳥類である証拠だ。もし科学界に詰められたら僕はすぐさま論破されるだろうが最後に『それでも人間は羽ばたいていた』と叫んでやる。


 ガリレオ・ガリレイは地動説を唱えたために、異端審問にかけられ、最後はひざを屈しなければならなくなった。今となっては異端審問が非難されているがガリレオが生きている間は彼の方が非難されていた。現代では名誉を回復して科学界の(ヒー)(ロー)になったが彼個人の人生は悲劇でしかない。でも地動説だって怪しいものだ。異端審問は間違っていたがガリレオだって間違っているかもしれない。本当は地球も太陽も止まっていて自分の目が回っているだけかもしれない。


 過去の発見は正しい。地動説でも太陽は地球の空をぐるぐる回っているし、相対性理論が出てきてもリンゴは木から落ちる。この世に間違いなんてなくて、どれも一面の真実を現しているのだろう。もしかしたらブラックホールの底で1+1がカボチャの世界が見つかるかもしれない。


 これから僕の語る一面の真実を聞いてほしい。途中でひっかかっても、ひっかかったまま進めば謎は氷解するはずだ。しなければ謝る。ごめん。こうやって先に謝るのは誰にも理解できないんじゃないかと不安なのもあるし、第一僕が十全に理解しているとは言い難いからだ。そもそもこの世に何かを理解している人なんているのだろうか? 現代でもソクラテスと話したら、みんな無知を暴かれるだろうし、彼が毒ニンジンを飲む結末も変わらないだろう。お前は何を言いたいんだと焦れている人もいるかもしれないが僕の文章は人生と同じで結末が最初に来ることはないし意味だってないのかもしれない。あぁ、言い訳がどんどん長くなる。よし、ここはズバっと言ってしまおう。


 人間は火星のペンギンに滅ぼされた。僕は人間最後の生き残りだ。


 どうだ驚いただろう。僕も最初は驚いた。どうして僕がそう思うようになったのかは明確な理由がない。日常のささいな積み重ねが揺るぎない証拠になった。刑事ドラマでいう、しっぽはまだ掴んでいないが絶対にクロというやつだ。五歳の時に僕はこの衝撃的な真実に気付いた。僕は人間の皮を被った火星のペンギン達に囲まれているのだと。


 たとえばだ。ペンギンは「ガー」と鳴いて、お互いの存在を確かめたり、拒絶したりする。言葉の意味を消化して、言葉を返すなんてことはしない。火星のペンギンも同じだ。彼らは「ガー」の代わりに言葉をやりとりするが相手の言葉なんて一瞬も腹に納めずに、声真似、いや、言葉真似した鳴き声を返しているだけだ。誰が聞いても、ご立派な言葉は発しているが、その実「ガー」「ガー」と鳴き合っているのと同じだ。


 小学校の時、僕は同級生に「ガー」とペンギンの真似をして挨拶をしたことがある。すると相手は目をぱちくりさせたが、僕がもう一度「ガー」と鳴いて首を下げると、向こうはニタリと笑った後に「ガー」と鳴いて首を下げた。あんまり相手を試すと不審がられるので、それをやったのは一度だけだが証拠はひとつ積み上がった。僕はこんな具合にあの手この手で周りの人間がみんな火星のペンギンであることを確かめていった。


 それ以上に僕が熱心だったのはペンギンの真似だ。もちろん水族館や海にいるペンギンではなく人間の皮を被った火星のペンギンの真似だ。もし僕が人間だとバレたら何かとんでもないことが起こりそうだったので命がけでペンギンの真似に人生を捧げた。僕の真似は完璧で決してしっぽは出さなかった。でも証拠はなくても疑うことは可能だ。ペンギン達はいつもうっすらとした敵意を僕に向けてきた。僕は人間だからどうしても(にん)(げん)()が出てしまうのだろう。向こうだって、いかにも人間でございますという顔をしていたがペンギン()を隠せていなかった。


 僕達はお互いに疑い、試し合い、信じ合えなかった。僕はいつ果てるともないスパイ合戦に疲れて「ペンギン共。本当の人間がここにいるぞ」と叫び、全てを終わらせたくなる衝動に襲われる時があった。またある時は、すれ違うペンギン一羽一羽に「君は人間のふりをした火星のペンギン……と見せかけて、本当は人間なんだろう?」と試したくなる時もあった。


 さて、おそらくこの文章を読んでいる君は人間のはずだ。人間以外の何かである確率はどう甘く見積もっても一〇%を超えないだろう。そして頭の回る読者なら、なぜ人間を滅ぼした火星のペンギンが人間のふりをする必要があるのだろうと疑問に思うはずだ。僕はこの疑問に至るまでに一〇年を要した。ペンギンに囲まれて、まともに物事を考えられる人間がいるだろうか? いや、いない。それを考えれば僕はノーベル賞級の発見をしたといってもいい。


 火星のペンギンがなぜ人間のふりを続けるのか。この謎を解くにはコペルニクス的転回が必要だった。天動説から地動説へ。今でも忘れられない。中学三年の一〇月、国語の授業で窓に揺れるカーテンをぼんやりと見ていると、突然あるひらめきが背筋を走り、僕は身震いした。もしその考えが誰かから聞かされたものだったなら僕はそいつを火炙りの刑に処しただろう。僕はすぐさまその考えを焼却した。しかし火の鳥が灰の中から何度でも甦るように真実もまた何度でも(よみがえ)った。そしてとうとう僕は信じざるを得なくなった。火星のペンギン達こそが人間であり、僕が人間のふりをした火星のペンギンなのだと。


 ニュートン万歳。オッカムの(かみ)(そり)。全てがシンプルに効率良く収まった。しかしどんな問題も形が変わるだけで決して解決しないものだ。物の見方は変わったが僕は相変わらず人間達からうっすらとした敵意を向けられていた。僕の真似は完璧だ。だからこそ不完全だ。現実界に人間のイデアが存在しないように人間達はみんなどこか非人間的なところがある。僕はそれをペンギン的だと勘違いしていたのだ。


 僕は火星のペンギン。最後の生き残り。息をひそめて人間のふりをしている。


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ペンギンと太陽が書けるまで


 万年筆が使えるじゃないか


 今まで雑感帳や仮書きのノートを書く時は1.0mmのボールペンを使っていた。何時間も書いていると0.7mmでは腕が痛くなってくるし、それは後日に持ち越される。本当は1.2mmが良いのだが替え芯の問題がある。店に置いてある替え芯は0.5とか0.3とか細いのばかりでインクが切れたらもう使えなくなってしまうのだ。そもそも1.2mmのペン自体があんまり置いていない。みんな細い字が好きだ。私もそう。


 前作『流星を打ち砕け』で1.0mmの替え芯は全部使い切ってしまった。しかし店へ行くと1.0mmの替え芯どころか、ボールペンも置いていなかった。しかたがないので5Bぐらいの鉛筆で書こうかなと考えていると、ふと万年筆があることに気付いた。


 この万年筆は15年以上前に買った物で、キャップの金具の部分に緑青色の錆が浮いている。一万円もしたので買うのに勇気が要った。太さは中字で1.0mmと同じくらい。私が選んだのではなく店の人が選んだ。ピカピカ光るガラス張りケースの前で「この万年筆をください」と言った時はシュッとしたスタイリッシュな細い字を書ける万年筆を買おうとしていたが、店のおじさんが何を書くのかと訊いてきたので「小説を書く」と答えると、それならこれにしなさいと同じ値段で中字の万年筆に決められた。勧められたのではない。おじさんは声こそ優しかったが、何の説明もなく、もうこれにするからなという雰囲気をぷんぷん放っていたので、細字の万年筆に未練はあったが「じゃあ、それでお願いします」と言ってしまった。平成の時代でも、ひどいことはひどいがおじさんが若い坊主に丁寧な説明なんかしてくれなくても、それはそういうものだと思う時代だった。今でもまだそうなのかな。

 家に帰って箱を開けると、ポクッと優しい音が鳴った。これはいつも買っている筆記用具じゃないぞという感じがした。中には宝石箱のつやつやした布地にリボンで付けられた万年筆。試しにノートに線を引いてみると最初は滑るような感覚に驚いた。でもそれ以上に驚いたのは(やっぱり太い)ということだ。ガラスケースの向こう側で見たスタイリッシュな細い線が頭に浮かんだ。やっぱりあの万年筆に変えてもらおうかと何度も考えたが、結局勇気が出なくて、そのままにした。

 若い坊主が生意気にも万年筆を買いに来たから世間の厳しさを教えてやれ。そういう嫌がらせを受けたのだとずっと思っていたが、あるきっかけで細字の万年筆が手元に転がり込んでくるラッキーがあった。それで細字で執筆していたこともあったが、原稿用紙4枚ぐらいで腕に負担がくるとすぐに気付いた。疲れというかコリも翌日に続く。中字だと20枚近くまでは負担なくいける。そこでようやくおじさんが中字にした理由が分かった。それ以来ノートを書く時もなるべく太い字のペンで書くようにしたら、だいぶ楽になった。

 いや、待てよ。ノートには万年筆使わんのか~い! と思った人がいるかもしれない。そう、事実使わなかったのである。小説を書くために買ったのだから、小説を書く時にしか万年筆を使わなかった。原稿用紙=万年筆である。それ以外にも使えるのではないかと気付いたのは、つい最近のことだ。なんたる頭の固さ。ノートにはボールペンか、鉛筆か、シャープペンシルを使うことしか頭になかったが、万年筆どころか墨を付けた筆で書いてもいい。

 万年筆がボールペンより良いのは、替え芯のmm数を気にしなくてもいいことだ。インクが無くなればカートリッジを代えればいいだけ。どの太さでもインクは同じ。どうして今まで気付かなかったのだろう。頭の固い奴だな、ちょっと笑える話だった。今は何でも万年筆で書いている。これで替え芯を買い溜めしなくてもよくなった。

 アルファベットと識字障害

 ヨハン・ラインホルト・フォスター(Johann linehold Forster)という鳥類学者について調べていると、lineholdがなぜラインホルではなくラインホルなのか気になってしまったので調べた。dの発音はドイツ語でもダ系の発音だが、音節の最後のくるとtの発音になるらしい。なぜそうなるのかは分からなかった。とにかくtの発音になる。いや、正確には無声音だ。tの口の動きで息を吐くという意味で、たとえばアメリカの大統領ドナルド・トランプ(Donald Trump)をドイツ語で発音したならばドナルト・トランプではなくドナル・トランプになる。怒鳴るは日本語だけど、怒鳴っている印象が彼にはある。ちなみにトランプ大統領はドイツ系らしい。


 アルファベット発音って理不尽だよなと思う。英語圏の言葉はこういうのが多い。英語でもknightのkは発音しない。クナイトではなくナイトだ。欧米圏の人は何で読めるのかなと不思議になるが、実は読めない人はそう珍しくない。識字障害は10人に1人もいるそうで、ハリウッドスターのトム・クルーズもそうだ。英語を読むのはミッション・インポッシブル。ネイティブでさえつまづくのだから、日本人が英語が下手なのは仕方がない。どうしてローマ帝国は滅んだのだろう。そうすれば綴りと発音が分かりやすかったのに。

 でも小学校を思い返してみれば、どうして『は』が『わ』になるのか意味不明だった。今でもそうだ。『は』と『わ』の違いは体得しているが、理解はしていない。この時は『は』、この時は『わ』と分かるだけだ(もしかしたら分からない時もあるかもしれない)。探せば、どの国の言葉にも理不尽はある。それを含めて文化なんじゃないかな。明治時代に日本語を作り直そうとした人達はいるが失敗している。変えようと思って変えられるものではないが、変わる時は変わって欲しくなくても変わるものだ。

延べ平均70字/日

 今回は仮書きを毎日推敲して、次の日はまた一から書き直している。賽の河原だ。この書き方だと長編はもちろん短編でさえ書き切ることは不可能なので、一章ごと(原稿用紙10枚ぐらい)に書くことにした。


 一章はtake10。つまり10回書き直してからwordに打ち込んだ。約4000字。最初はプロットを書いていた期間もあるので、この先数字が増えることもあるだろうが、プロットを書き始めてからここまで来るのに延べ平均70字/日だと分かった。遅い遅いと思っていた『流星を打ち砕け』でさえ800字/日はあったからとんでもない遅さだ。

 推敲はまず一通り書き終えてからやるべきと色んな作家が言っている。まったくその通りで、毎日推敲していると小説を書き進める力が明らかに弱くなったのを感じる。『生存回路』から書けなかった日は一日もなかったが、今回は三年ぶりに書けない状態を味わっている。

 一文字も書けなかった日の夜なんかは、小説一冊を書くのに、こんなに手間と時間をかけて良いのだろうか。とんでもない浪費をしているのではないかという疑問が湧く時がある。それでもまた一から書き直して推敲する。推敲すればしただけ良くなっているような気がする。疲れで背中にべったりと暗い重力が張り付いていても、そこだけはみずみずしい手応えを必ず感じられる。

 season3の執筆はとことんやるがテーマだ。得るものが労力に見合わなくても、やると決めたのだから、やれるところまではやってみるつもりだ。

同じものを書いて違う結果を求める

 毎日同じところを書いている。プロットは書く前に引いているので仮書きで何を書くのかも決まっている。5回目ぐらいになると手が憶えている所もあって、こんな書き直しに意味はあるのか? と自分でも疑う時がある。

 同じものを書こうとすれば同じものが出力されるはずだが、不思議なことにまったく同じが出てくるわけではない。もちろん9割くらいは同じだが、わずかな違いもある(推敲してるし当然か)。その違いが積み重なっていくと、ある瞬間にパッと白い稲妻が走って、そこからバババッと水が氷に変わるようにひらめきが広がっていく。こういうことが起きると、ああ、やっぱり間違っていなかったなと思える。

 もう小説を一本書いたような気がするし、事実、字数で言えばもう10万字以上書いている(9割は同じだけど)。それなのにまだwordには4000字しか書かれていないというのが凄いよなとビックリする。5月から仮書きを初めて、もう6月も中頃なのに、まだ2章を書き終わっていない。こんな調子でこの小説を書き終えることができるんだろうかと不思議に思う。もしかしたら『ペンギンと太陽』は頓挫するかもしれない。でも今が一番良い小説を書いているような気がしている。

びっくりするほど遅い

 ようやく2章をwordに打ち終えた。5月19日から6月18日までかかって約4000字。延べ平均すれば約130字/日となる。原稿用紙一枚より少ない。たぶん今世界で一番遅い小説家は牛野小雪なのではないか。書いていないわけではないけれど、ノートに書いた仮書きの90%以上は使われないので取れ高が少ない。そこまでやってもやっぱりまだまだだと思う。先月の第一章はもうばりばり推敲できてしまった。2章だってたぶん時間を置けば手を加えられるだろう。完璧な文章なんて夢物語のような気がしてきた。

吠声のふりがな

 吠声という言葉は今まで<ほおごえ>と読むものとばかり思っていたが、いざwordで打ち込もうとすると全然出てこないので漢字辞典を調べると<ほえごえ>と読むらしい。

 七月二十三日に第四章をwordに打ち込んだ。1万6千字。よくやく冒頭が終わった。その時書いている章は毎日推敲しているが、全体の推敲はまだ一度もしていないので、試しにkindleで推敲してみると最初の一行で今までと違う感触があった。ロゴーンに突っ込んでみても、いつも井上靖と出ていたのが遠藤周作に変わった。良い悪いは別にして違う物が書けているようだ。

とにかく違う物を書く

 五月から書き始めて七月の下旬までの約三か月で1万6千字。この調子だと完成まで2年ぐらいかかりそうだし、それだけ時間をかけても10万字を超えないかもしれない。時々今まで使った時間を考えてゾッとする瞬間がある。去年『流星を打ち砕け』の仮書きを書き始めたのも『ペンギンと太陽』と同じくらいだが、7月にはもう千秋がユニコと一緒にアイスクリームを子供たちに配っているところまで書けていた。

 今回は書き方が違うとはいえ進みが遅いのは間違いないので、どうも焦ってしまう。小説の完成をだれに急かされているわけではないが、一つの小説とじっと向き合うのは息苦しい。一つの章を何度も推敲して書き直すので、word上では何日も進まないわけで、何日も書いて書いて書きまくっているが、wordに打ち込まないのは自分がそれを許さないからで、実はよくよく考えていると何日も書けないでうんうんうなっているのと同じ苦しみがあるのだと気付いた。無意識で起きていたことを意識的にしているに過ぎない。一か月に一日か二日しか書けない超スランプ状態で書いているのと同じで苦しくないわけがないのだ。

一呼吸十枚

 5章は長いなと思いながらずっと仮書きしていた。時には一日で書き切れなくて次の日に持ち越した時もあった。wordに打ち込んで文字カウントするとやっぱり5000字を超えていた。どうりで苦しかったはずだ。どうも私の執筆の呼吸は原稿用紙10枚ぐらいのようだ。
それを超えると書き過ぎていると肌で分かる。実際に次の日はボロボロになるし書けなかった日もある。そういう時はいつも精神力は無限ではないと痛感する。執筆はほとんど精神活動といってもいいが一日10万字書けることは絶対にない。いつかは精神や魂も物理現象で捉えられる時が来るだろう。そうなれば今より書けるようになるだろうが、やっぱり無限や絶対の境地には到達できないだろうなと予感している。21世紀に生きる人間の戯言だ。

求めているのは理由ではない

 なぜ同じところを何度も書き直しているのだろう。
 ↓
 より良い小説を書くため。

 答えは分かっているし、実際に良くなっている。それでも満足できる物が得られないから怒ったり苦しんだり、時にはふてくされたりする。要は結果が出ないからだ。結果が得られないからストレスが溜まる。なら結果を求めなければいいというのが自己啓発的なアプローチだが、求めなければ得られないのでは? という問いを一年前に考えていて今も答えは出ていない。書かずに書くなんて矛盾が実現しないかぎり、この問いを解くことはできない気がする。

書けないのは書けない流れにいるから

 全然書けなくなる日が何日も続いて、自分でも不思議に思っていたが、お盆から執筆を開始して一か月以上経っているのだと気付いた。何年もデータを取っていればほぼ一月周期で好不調の流れがあって、もし不調の波に捕まったらずっと書けなくなるというのが分かっていたから、一月に一回一週間休めば書けない日がなくせるのではないかという予測を立てたのが2年前。それからずっと『書けない日』というのを味わったことがなかったので、書けなくなる感覚を久しぶりに思い出した。と言いつつ実は三か月ぐらい前にも同じ感覚を味わっている。その時もやはり休まなかったせいだ。書ける時はまだまだ書けるからと書き続けるし、書けない時もせめて次に繋がるとっかかりでもと思って机の前にかじりつく。その結果リズムを崩して書けなくなる。

 つい四日前までは、もうこれ以上書くのは無理かもしれない・・・・と絶望していたのに、今日は今書いたら絶対に書けるぞ! と確信できるぐらい力が戻っている。でもあと三日は書かない。執筆は書いたら書いただけ進むわけじゃない。休んだ方がかえって早くたくさん書ける。それが分かっているから全力でさぼるのだ。

欲なく書く

 今回の小説は月に何度か書けない日があり、そのたびにこれは私には荷が重いと思う。事実筆は重く、月に4000字ほどしか進まない。これは何度もノートに書き直してからwordに打ち込むからで、書いた字数で言えば人生で一番書いているのは間違いない。でもword上では月に4000字なので、目に見える結果はほとんどない。振り返れば違いが分かるが、一日一日で見れば毎日同じところをぐるぐる無意味に回っている気がする。人間、無意味には耐えられないものだ。と考えたこともあるが、たとえばゲームやネットなんて無意味だが、放っておけばいつまでも続けてしまう。なぜゲームやネットは一日中続けられるのに小説は続けられないのだろう。それはゲームに欲はないが、小説には完成させたいという欲があるからだと考えた。小説の場合、ただ書けばいいのではなく完璧なものを書きあげたいという欲がある。しかしネットやゲームは完璧じゃなくてもいい。たとえばもしゲームで、このステージを1分以内にノーミスでクリアしなければならないという欲があれば、とても一日中続けられないのではないか。あるいは今日はネットを歩き回って頭の中をアップデートするぞなんて考えていたら一時間も続けられないだろう。現に目的があってネットを使う時は5分以内で済ませてしまう。

 数年前までは『凄い小説を書くぞ』という意志がプラスに働いていたと思うが、ここ最近はそれが足かせになっている。もっと頭の中をフラットにプラスチックや機械みたいにして書けないだろうか。それとは別に心の手で炎を掴みながら書くのが小説だろう、という考えもある。

 欲を捨てろというのは昔から言われていることであり、凄い小説を書きたいというのは間違いなく欲で、それがために苦しんでいるのも分かっている。しかし、欲なくして書くのは矛盾している気がする。だが現に欲なくネットやゲームができて、それが人生で大きなウェイトを持っていることを考えると、たぶん欲なく書くことは可能だし、それができれば今より一段上手く書ける予感がある。欲があれば書けるが、欲がなければもっと書ける。何故なら燃料を必要としないから。問題は欲が捨てられないということ。なんだか禅問答をしているような気がする。

一年で四万字しか書けない。

 去年の五月からノートに書き始めて、四月にようやくword上で4万字に到達した。一章を原稿用紙一〇枚のリズムで書いて、その日のうちに推敲して、また書き直すことばかりしている。だいたい一章をwordに打ち込むまでに一か月かかるのだが、9章は三か月もかかってしまった。最初から時間をぜいたくにかけて執筆するつもりだったが、一年経っても原稿用紙100枚分しか進んでいないので、びっくりする。

 書こうと思えばもっとたくさん書けるけれど、しょうもないものをいくら書いても仕方がない(いま書いているのがそうだったらどうしよう)。毎日推敲して書き直していると、すっごい無駄なことしているなぁとか思うけれど、何回も書き直したところを読んでいると文章が光って見えるぐらい良いと感じる。コンコルド効果かもしれない。

これは小説なんだろうか?


 2021年7月にようやく『ペンギンと太陽』を書き終える。推敲したら結局4万字におさまった。1年以上かけて4万字だ。長ければ良いという物ではないけれど、短いなとも思う。このクオリティを保ったまま、12万字は超えられるようにしたい。
 

 推敲していて感じたのは、これは『小説』なのだろうかということだ。最近は読まれている順に過去作を改稿しているのだが、昔に書いた『蒲生田岬』とか『黒髪の殻』の方がよっぽど『小説』の形をしている。

 あえて小説を『』で囲っているのは、それが私の中にある小説の形である小説という意味で『ペンギンと太陽』だって小説ではあるのだろうが、私の中では小説と扱える物ではない。じゃあ何なのかと問われたら答えはないけれど。

 言葉の選び方一つとっても今の方が絶対に良い。1ページだけ切り取ってもペンギンに軍配が上がる。でも一冊の本として見た場合、私はこれが『小説』とは思えなかった。もしかしたら私は文学病にかかっているのかもしれない。言葉や文体にこだわりすぎて小説を置き去りにしたのだろうか。あるいは一章ずつ書いていくスタイルだったので、一冊の本として完成しなかったのかもしれない。

 はっきり言って『小説』として見るならば『ペンギンと太陽』は失敗作だ。それでも良いと感じられるものはあった。最後の一行を書き終えた時は、こんな文章を書けてしまって本当に良いんだろうかと震えるほどだった。なので、世に出してみることにした。


ペンギンと太陽/牛野小雪

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