2020年2月14日金曜日

インタビュー『流星を打ち砕け』を書く。 聞き手:牛野小雪

―2020年2月に『流星を打ち砕け』をリリースされました。この小説のアイデアはどこから生まれましたか?

 今さらという感じですが東日本大震災が元になっています。ただしこの小説では地震ではなく隕石に襲われることになっています。なぜ地震ではないかというと、震災は他の場所でも起こるし、過去未来でも起きるので、そういう天災を抽象化したものが隕石となりました。だから震災は関係あるともいえるし、関係ないともいえる。
 

―隕石はただ落ちてくるのではなく核爆弾で破壊された破片の状態で落ちてきます。これは福島原発との関連はありますか? それとも広島長崎の原爆は関係ありますか?

 原発、原爆との直接的な関連はないにしても科学や人間社会の象徴としての核爆弾ではあるかもしれない。人類滅亡級の隕石という理不尽な自然を、人の手で何としてでも破壊するという意思の象徴として核爆弾。もし地球や宇宙の環境がどうのと言っていれば人類は滅亡するわけで、核爆弾は恐ろしいものですが同時に人間の役にも立っている。核爆弾は人殺しの道具で、それは通常兵器も同じことですが、そういう兵器を作った科学は悪い物か、とは一概に言えないと思うんです。良い悪いは別にしても科学無しで現代人は暮らしていけないし、自然に還ろうと説くナチュラリストも恩恵からは逃れられない。そもそもどこから科学といえるのかという問題で、火を起こすのも広義な意味では科学であり、その延長線上に核爆弾があるような気がする。
 と、考えてみると主人公の藤原千秋は火を起こさないことに気付きました。もちろん人間だからところどころで火の恩恵は受けるけれど自分からは起こさない。そして、二階堂先生という人が出てくるのですが、彼女はマッチと燃料を使って火を起こすんですね。その彼女は物語の後半で千秋がある行動を起こすきっかけを作るんです。自分では気付かなかったけれど、これは反科学小説、あるいは反社会小説という読み方もあるかもしれない。

―『ターンワールド』で主人公のタクヤが別世界に行った時に、老人から最初に教わるのが火を起こすことでしたね。

 タクヤは火を起こすけれど、千秋は起こさない。でも最後にやることは似ているんですよ。タクヤは意識的にですが、千秋は無意識に。

―それでは今作も世界が終わる話ですか?

 どの小説でもそうなんですが、まずある世界があって、それが変化するなり、成長していくものだから、ある意味では毎回世界が終わるんじゃないかな。でも元の世界といっていいのかな。帰る場所に帰る方法はタクヤは無意識だけれど、千秋は意識的だったりする。

―それは男女の違い?

 こうやって考えさせられているから出てきたことで、今まで考えたこともなかった。でも私の中で男女の性別が反転するように、行いや考え方も反転したのかもしれない。

―たとえばもし主人公がゲイやレズだったら、どうなっていたでしょうか?

 タクヤは男だからこう、千秋は女の子だからこう、という気持ちで書いたわけではなく、それぞれサイトウタクヤ、藤原千秋という一人の人間として書いたつもりです。無意識的に書き分けたかもしれないけれど、意識的にはそうです。小説の登場人物で書かかれるのは人間性だから、たぶんゲイやレズでも特に意識はしないかもしれない。究極的には火星のペンギンでも同じだと思う。

―なぜ火星のペンギン?

 小説で猫を書いても結局はどこか人間的だから、やっぱり火星のペンギンも人間的に書くと思うから。

―猫は飼っておられますか?

 家の近くに空き地があって、そこが野良猫というか野生生物のたまり場になっているんですよ。猫を飼ったことは一度もありませんが、姿は毎日のように見ています。小学生の時はある野良猫と友達になって毎日遊んでいた時もありました。

―何をして遊ばれたのですか?

 相手は猫だからね。ボールを投げたり、追いかけっこしたり、鏡を見せて驚かせたり、一緒に屋根の登って地上にいる人をながめていたり、まぁそんなこと。エサは一度もあげなかったけれど何故か気が合った。夕方の四時に何度も名前を呼んでいると、どこからか現れて足元にやってくる感じ。でもある時から姿を見せなくなって、もしかしたら死んだんじゃないかって何日か探していたら、とある家のおばあさんにすっかり餌付けされていて、名前を呼んでも来なかったからそこで友情は終わりです。

―『流星を打ち砕け』ではクッキーという猫が出てきます。他の小説でも猫が出てきます。その経験は生かされていますか?

 たぶん関係ないんじゃないかな。別の小説ですが、ある人にうちの猫はこんなことしないと指摘されたことがあります。他の人もそう思ったかもしれない。でもクッキーは『うちの猫』じゃなくてクッキーだから、そういうものだと思って読んでほしいですね。それにクッキーも自分をそんじゃそこらの猫じゃないと言っているしね。

―どうやってこの小説を書かれましたか?

 最初に構想をノートに書いて、それを元にプロットを作りました。先が分かっていると面白くないからと、プロットを作らない人は多いようです。
 完全にプロット通りに書いているわけではなく、二年前からは『後からひらめいたことは絶対に正しい』という信念で書くようにしたので、書く前はもちろん書いている途中でも書き直します。『流星を打ち砕け』は9回書き直しました。でも基本的には道筋が決まってから書くやり方は変えていません。世界には何百万人も作家がいるのだから、こういう作家がいてもいいでしょう。

―書き直すとは具体的にどういうことをするのですか?

 大きなところ小さなところと色々ありますが、たとえば最初のプロットの書き直しは登場人物を減らしました。元々の案はポロ部の子が4人。同級生の子の妹、その友達がいたのですが、音々ちゃんと伊集院先輩を除いて全員消えました。その二人にしても、ほとんど物語に関わってこない。顧問の二階堂先生も役割が変わった。

なぜ減らしたのですか?

 本筋は藤原千秋の物語だから。ポロ部だけじゃなくて先生や避難所にいる人達にも物語はあった。そういうのを全部書いたら完成稿の倍の倍ぐらいの分量になったと思う。でも藤原千秋にできるだけ焦点を当てていたら、みんな消えてしまった。

 これは作者にしか分からないかも知れないけれど、ところどころにある妙に力が強い場面には、消えたプロットの名残がある。だから表面には出てこなくても、書かなかった部分はこの小説に力を与えていると思う。書かなかったものはたくさんあるけれど、無駄になったものはない。みんな役に立っている。
 面白いのは藤原千秋の物語なのに猫のクッキーが登場することで、彼女はほとんど千秋と関係ないところで動いていて、理論的にはクッキーはこの小説に必要ない。だからポロ部の子達より先に消えるはずだったのに何故か最後まで残ってしまった。

―それは彼女が世界で一番美しいから?


 かもしれない。なぜ消さなかったのかと問われても分からない。推敲をしている時でも消した方がいいとは思ったけれど、消したのは一章だけ。でも同じタイミングで千秋も一章減らした。クッキーなしで千秋は存在できないようだ。
 もし、千秋かクッキーかを選ぶとしたら、クッキーの章だけを残したいな。でもそうすると小説が成立しない。難しいね。でもたぶん、これは予感なんだけれど、私は将来的にクッキーだけで小説を書くようにな気がする。

―いつからそのような書き方を?

 今とまったく同じではありませんが、プロットを作るやり方はもう10年以上前から、自分の部屋から半径1m以内で完結する小説を書いていたころからです。
 書き方は少しずつ変化していって、一昨年からは執筆と並行して仮書きをするようになりました。絵でいう下書きみたいなものですね。これで手応えがあったので『流星を打ち砕け』は執筆前に一度最後まで仮書きして、そこからまた執筆と並行して仮書きをしました。次の日に書く分を毎日書くんです。こんなに手間をかけたら一年以上かかるんじゃないかと不安になったけれど、執筆は今までにないぐらい進んだので去年中に終わりました。



―書き方の参考にした本はありますか?

 齋藤孝さんの『原稿用紙を10枚書く力』です。今思い返すとあれは小説の書き方ではなかった気がするけれど、小説を書く前に色々準備しておくという考え方はこの本で習いました。それまでは原稿用紙3枚ぐらいがやっとで、5枚も書いたら物凄く書いたと感動したぐらいですが、その本を読んでからは10枚、20枚と書けるようになりました。これ以外にも何冊か書き方の本は読んだのですが、動物が生まれて初めて見たものを親と認識するように、この本以外の書き方は私の中に残りませんでした。

―『流星を打ち砕け』は私という一人称で千秋とクッキーの章が書かれています。あなたのこれまでの作品から一人称は珍しい印象を受けるのですが、今作で一人称にした理由はありますか?

『聖者の行進』という小説を書いたときに神視点の三人称で世界を書こうとしました。人がいない小説を書こうとしたんです。じゃあその次は個人の視点を重ねて世界を書けないかなと。フォトショップでレイヤーを重ねて絵を描くように、小説も書けないかなと。

―芥川龍之介の『藪の中』のような? しかしレイヤーは重なっていないように思われます。

 一つの事象を多数の視点で見るのではなく、それぞれが別のところを見ている。『藪の中』はくねくねと曲がった穴の底へ潜っていくようなのに対して、私はただ広い暗い空間を目を光らせながら歩いているようなものですね。芥川は立体的で、私は平面的。彫刻と絵画、三次元と二次元。

―次元が多い分、芥川が一枚上手だと思われますか?

 どちらが上ではなく、ただ違うんだと思います。三次元が二次元より偉いというわけでもないでしょう。それに『藪の中』は既にあるのだから、後世の人間は違う小説を書かなくてはいけない。でも負けたくはないな。

―小説の舞台はすだち県という架空の土地ですが、四国にあると書かれていて、挿絵に出てくる四国も現実のものとほぼ同じです。徳島県がモデルなのですか?(牛野小雪氏は徳島県在住)

 三つ子の魂百までと言いますし、やはり体に染みついた空気と水は徳島から離れられないんだと思います。『流星を打ち砕け』だけではなくすべての小説は徳島県から発想を得ているはずです。作中では別の土地になっていても、私が思い描いている場所は徳島県のどこかという場合がほとんどでしょう。

―ほとんど、ということは違うこともある?

 生まれてから一度も徳島を出たことがないというわけではありませんから。ただ想像の土台はやっぱり自分が育った場所を抜けられないんだと思います。でも『流星を打ち砕け』に出てくる砂浜は実在しません。というのも私の記憶ではそこに砂浜があったはずなのに、実際に行ってみると高速道路の橋桁が立っていたんです。護岸整備もされていて、とても浜と呼べる場所ではなかった。だから、あそこは私の頭にしかない場所なんです。

―その砂浜から千秋は『U.S.NAVY』と船体に書かれた船を見ます。米軍の船ですね。搭乗員はアメリカ人で英語を話しますし、作中でもそこは英語になっている。別の場面では千秋がシャネルの帽子を被ったり、プーマのジャージを着たり、スパゲッティを食べたりしています。馬や猫の名前は明らかに外国のものです。なぜ日本人のあなたが外国の文化を書くのですか? 西洋かぶれなのでしょうか?

 まだ(2020年1月現在)リリースはしていないのですが一昨年から去年にかけて『山桜』という小説を書いていました。書く前は純日本的な物を書こうとしていて、武士道とか、大和魂とか、あるいは外国人から見た日本とか、色々調べていたのですが、結局純日本的な物とは何かというのが分からなくなってしまいました。ある瞬間、ある時代における日本的なものはあっても、別の時代では簡単に変わってしまう。という至極当たり前のことに気付いたのです。和服一つとっても十二単と小袖は別物だし、刀も鎌倉時代に馬上で使われていた物と、幕末の武士が腰に差していた物はやはり違う物。
 なぜ外国の文化を書くかといえば、それが現代の日本にあるからでしょう。たぶんですが、プーマが外国の企業だと知っている人なんてほとんどいないだろうし、意識もしていない。私にしても何年か前にTVで知ったぐらいです。シャネルは外国の物として意識されているかもしれませんが、それ以上に『ブランド物』として意識されているはずだし、スパゲッティもイタリア料理ではなくスパゲッティとして意識されている。たぶん。少なくとも私はそう。外国の物はすでに日本の物として吸収されているから『純日本』とは言えないにしても『現代日本』ではあると思うのです。
 ただ、私は週刊少年ジャンプとハリウッド映画を浴びて育った人間ですから。半分は西洋、というかアメリカに影響を受けているのは間違いないです。
 そしてたぶん西洋かぶれっぽく感じたのだとしたら、それは去年、純日本的な物を書こうとした『山桜』の反動だと思います。

―主人公の千秋はポロ部です。現実の日本で、学校の部活動としてのポロ部は存在しません。なぜ千秋はポロ部なのですか?

 それは私が訊きたいぐらいで、小説の初期の初期、まだ形も言葉もないイメージから彼女は馬に乗って現れました。右手にはポロの棒を持って。理屈からひらめきが出ないように、ひらめきから理屈は出てこないんです。ポロ部だからポロ部。それ以上の理由はありません。

―ポロをされたことはありますか?

 小さい時にポニーに乗ったことはあります。背中の毛がごわごわしていて、温かかったことを憶えています。

―今作では挿絵をご自身で描かれています。普段は絵を描かれているのですか

 新作を出す時に自分で表紙を作らなければならないので、数年前から美術館に通って刺激を受けに行くようにはなりました。でもああいういかにも『芸術』みたいなのは描くつもりはないですし、描けるとも思いません。時々ちらっと描くだけですよ。挿絵を書く必要がなかったら毎日は描かない。たぶん月に2、3回ぐらいじゃないかな。数えたことはないけど。

―絵は何枚描かれましたか?

 挿絵は50枚くらい。でも下書きはたくさん描きました。割り箸の紙とか、整理券の裏とか、そういうのに描いたのも含めると100や200は超えているだろうけれど、たぶん1000枚は超えていないんじゃないかな。


ーどうしてこんなにたくさんの挿絵を描く気になったのですか?

 twitterでセルフパブリッシングの作家の人はマルチな才能があって、絵を描ける人もいるのだから挿絵がいっぱいの小説を書いたらいいのにと言っている人がいたので、それに触発されて描きました。もっとも私に絵の才能があるとは思えないけれど。

―絵を描くにあたって参考にされた本はありますか?

 中村祐介の『中村祐介「みんなのイラスト教室」』とパウル・クレーの『造形思考』。それとどうしても馬の形が掴めなかったのでジェニファー・ベルの『‐HORSE‐やさしい馬の描き方』を読んで練習しました。この本を読んでいなかったらユニコが出てくる挿絵はなかったでしょう。

―これからどういう小説を書くつもりですか?

 今見えている目標としては限りなく透明に近いフラットな小説を書くつもりです。どこまでも平坦で、凹凸や深みがない、全てが表面で完結する、いわゆる『文学的』ではない物を書きたいと思っています。

―表面で完結するとは?

 感情と事実が消えた世界です。といいつつ私もまだそれがどんな物か想像はつかないんですけどね。
 形が見えている物なら『平家物語』の冒頭ですね。ああいう何人称とか関係ない文体で小説を書けたらなとここ数年は悩んでいます。

―最後に、あなたにとって小説とは?

 地に落ちた堕天使(ルシファー)。


―堕天使ですか?

 小説は最初、言葉も色も形もない純粋なイメージで降ってくる。そのイメージはあまりにも素晴らしすぎて、小説家はしばらく圧倒されてしまうけれど、そこから何とか言葉で形を捉えていく。しかし言葉にするばするほどイメージは損なわれていく。天使が言葉に羽を食べられて、天国から地上へ落ちてくるようなものだ。
 地上に落ちた天使は小説家が扱える物になる。最初に圧倒されたイメージとは別物になっているけどね。まぁ、言ってしまえば天使ちゃんではなくなってるわけだ。でもそこであきらめずに地上で生きていく強さを身につけて欲しいと願いながら書き続けることが、小説を書くってことじゃないかな。小説の最初は魔力だけど、最後は魔が抜けて力になっている。だから現実に存在できる。
 一番良いのは小説を書かないこと。小説は純粋なイメージの時が一番美しい。でも手に入れようとすれば、羽をもいで地上に落とさなければならない。小説は誰にでも書ける、あるいは誰でも一つは自分の物語を持っているというけれど、実際に書く人があまりいないのはそういうところに理由があるんじゃないかな。小説を書くことは精神的な自傷行為で、書けば書くほど雲の上にいる天使は傷付いていく。でも傷付けなければ地上に引きずり落とせない。放っておけばいいのに、手で掴もうとするから小説家は残酷で罪深いと思う。

―なるほど。今日はありがとうございました。

 こちらこそ。ありがとうございました。

(おわり)