2019年12月30日月曜日

『黒髪の殻』試し読み



 気付けばいつも嫌われている。理由は分からない。ある時それに気付き、人に好かれるように気を使っていた。そのおかげで人に好かれるようになったが、それでも嫌われた。人生でこれ以上面白い事はないと楽しんでいる最中に、ふっと剥き出しの敵意を向けられたり、お前とは一生の友達だと言った相手が、死ぬまでお前を許さないという感情をこちらに向けてきた事もある。そういう記憶は(まさ)()の心に深く(つめ)(あと)を残した。
 中二の秋に好き嫌いは相反するものではなく、同時に存在できるものだと正人は理解した。それで自分は努力の甲斐あって、そこそこ好かれてはいるのだが、同時に嫌われている事も分かった。人に好かれるように気を使うのが嫌になったが、やめようとは思わなかった。好意が消えて悪意だけが残るような気がしたからだ。
 だが、高校二年の九月、正人に限界がきた。こんな生活はもう続けられないと嫌になり、学校を辞めたいと考えるようになった。しかし、ただ辞めると言えば親に止められるのは目に見えていたので、ずっと言い出せずにいた。
 ふとしたきっかけで同級生と殴り合った。何が理由でとも思い出せないぐらい()(さい)なことが原因で、始めは向こうも殴り返してきたが最後は一方的に殴るだけになった。殴っている最中にこれで学校を辞められると正人は冷静に考えていた。男性の体育教師に後ろから腕ごと抱え上げられた時はこれで終わるのだと思って、顔には笑みが浮かんだ。
 しかし学校はただのケンカで処理しようとした。相手の親も問題にしようとはしなかった。三日も経つと誰もそのことを話さなくなり、殴った相手はまだ顔に青いあざが残っていたのに『俺が悪かった』と謝ってきた。
 正人は意味が分からなかった。理不尽で透明な物が学校を辞めさせないようにしている。もう一度殴ってやろうかと思ったが、さすがにそれはでやめた。
 結局は親に学校を辞めたいと言った。親がケンカに何か原因があるのかと一度訊いてきたので、正人がそれにうなずくと親は納得した。しかし、もっと根本的なところに原因があるような気がした。それが何かは正人にも分からない。ただ在るということが分かるだけだ。
 正人は高校を中退した。
 学校を辞めてからは何をするでもなく、ただ日々を過ごしたが、ある日()()が家に来た。正人に用があるらしい。
 叔父はまず高校を中退してこれから先の人生をどうするのか訊いた。答えられるはずがないので正人は黙っていた。それから学校は辞めるにしても何かしなくてはならないと言った。他にも色々言われたが、どれももっともな事ばかりなので正人は黙っていた。
 言葉が一度途切れて、叔父が間を()めた。今日はこれを言いにきたのだと正人には分かった。
 大工になれ、と叔父は言った。
 知り合いの父親が大工の親方をしていて、昔は()()をとって(しゅ)(ぎょう)させていたそうだ。その人の元で修行した大工はみんな業界では知る人ぞ知るという立派な職人になっている。だから大工になれということらしい。
 大学へ行く頭ではなかったが、大工がうまくやれるとも思えなかった。人がいれば結局良くない事が起きる。できれば人と関わり合いのない仕事がいい。それに今どき修行なんてとも思った。しかし断れるような雰囲気ではなく、正人はずっと黙っていた。
 しばらく誰も口を開かなかった。
 沈黙に堪えかねた叔父が「そうするぞ、大工になれ」と言葉をこぼした。正人はうなずくしかなかった。
 三週間後に叔父から電話があり、明日親方のところへ行くから学生服を用意しておけと言った。
 その日は(いっ)(すい)もできなかった。眠気を抱えたまま叔父の車に乗せられて大工の親方のところまで行った。眠れなかった事もそうだが、元々()()りはしなかった。ふてくされていれば向こうからあきらめてくれるだろう。
 そこは倉庫と家が寄りそっている内にいつの間にか合体したような建物で『上原組』と看板がかかっていた。年代物の板だったが薄く湿った光を反射させていて、(ほこり)一つ付いていない。看板だけ見ればヤクザの事務所みたいだった。
 倉庫に入ると髪が全て真っ白になっている男が粗末な木製の椅子に手と足を組んで座っていた。どう見ても歳は取っているが体付きはしっかりしていて体中から生命力が溢れていた。
「そいつは駄目だ」
 叔父がまだ何も言っていないのに男はいきなりそんなことを言った。
「待ってください」と叔父が食い下がる。
「お願いします」「駄目だ」のやり取りが叔父と男の間で繰り返された。
 正人としては別に駄目なら駄目で構わないのだが、駄目だと言い続けている男にだんだん腹が立ってきた。大工に弟子入りするのは駄目になって欲しいが、叔父の頼みをはねつけるのは何故か許せなかった。
 男が正人に目を向けた。見下すような目が許せないと正人は思った。
「お前も駄目だと思っているだろう?」と男は正人に(たず)ねた。
「できます」と正人は答えていた。
「あ?」
 男が眉をひそめる。
「大工ぐらい俺にもできますよ。修行するまでもない。木を切って釘を打つだけだ」
「てめえにできるわけねえよ」
 男は叔父に対しては社交的な態度を見せていたが、正人が喋ると感情を(あら)わにした。
「高校もロクに卒業できない根性無しに何ができる。おめえには何もできねえよ。親にも世間様にも(めい)(わく)だから、その辺でさっさと()()れ死ね」
 男の一言一言が正人の腹を()えたぎらせた。
「いやですね」
「嫌だぁ。そんなこと言えた義理か。この()()(せい)に高校辞めるなんて聞いたことがねえ。きっと親も泣いてるだろうよ」
 男が床に(つば)を吐き捨てた。それは正人の足元に落ちた。
「泣かせていません」
「いい子ぶるこたあねえよ。おめえはとんでもねえ不良野郎だ。イキのいい奴ならまだ()(わい)げもあるが根性無しは救いようがねえ。(おれ)んところでも面倒見きれねえや。あきらめてくれや、なっ、(まさ)()さん」
 男は最後に叔父へ言葉を向けた。叔父は言葉を返せずにうつむいている。
「俺はあんたの(おい)()が憎くてこんな事を言ってるんじゃねえ。人には向き不向きってもんがある。こいつは大工に向いてない。それだけです。さっきのは言葉の(あや)みたいなもんです。どうも学が無いもんで興奮すると変なことを口走っちまうようです。とにかく他を当たってください」
 叔父に話しかける時はやはり男の口調は変わっていた。そこに嘘の気配を感じて正人は腹が立った。
「てめえだって、そう思うだろう? 今どき親方に弟子入りって時代でもねえし、大工だってできそうにねえ。始めからそういう顔をしてたぞ」
 今度の男の口調は叔父に話しかけるように柔らかくなっていた。もうこれで話はまとまったという雰囲気を出している。勝手に終わらせるな。正人はまた腹が立った。
「できます」と正人は言った。目の前の男に対してできないと言いたくなかった。そんな言葉が返ってくると思わなかったのか、男が意外そうな顔をした。
「できますよ」
 正人は重ねて言った。怒っていた。それも冷静な怒りだ。同級生を殴っていた時に似ている。
「無理だ」「できます」何度も同じやり取りを繰り返した。
「くそっ、それじゃあ明日一度来てみろ。駄目だったら、あきらめろ、なっ」
 最後に男があきらめたように言った。男は疲れた顔を隠そうともしていない。目の前の男に対する微かな勝利感で正人は少し嬉しくなった。
 明日の朝六時に倉庫前に来いと言われ、その日は帰った。
 帰りの車の中で叔父は何も言わなかった。家に帰ると明日から親方のところで修行することになったと親に伝えて、すぐに帰った。
 両親は何も言わなかったが不安は伝わってきた。それとは反対に正人は興奮していた。絶対にできるとあの男に証明してやろうと怒っていた。それで自分が根性無しの救いようがない奴ではないと証明できれば、あの男を殺してやろうと考えていた。あの男は自分を()(じょく)した。その償いは命で払ってもらうつもりだ。ただし、ただ殺しただけではあの男が言ったように正真正銘のクズ野郎だ。あの男の言った事が間違いであった事を証明してから殺す。そう決めていた。

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