ターンワールド 試し読み

この世が最悪の世界だと見抜いたタクヤは、
夜行バスに乗り徳島へ家出したが
彼の乗ったバスは徳島へ到着しなかった。


TURN WORLD1

 最悪の世界 


 この世は最悪だ。

 証拠品A、B、C、D・・・・・。

 そこにまたひとつ証拠が積みあがる。

 朝から嫌な物を見た。タクヤは不採用通知を机の引き出しにしまった。同じような封筒は引き出しからあふれそうになっている。

 タクヤは大学へ行った。講義では一番前の席に座る。そこだと教壇にいる教授だけを見ていればいい。後ろで楽しそうにしている声は無視する。タクヤはいつしか聞きたくない声を無視できるようになった。

 自分が駄目人間ということは分かっている。だからといってそれを誰とも共有したくはないし、話したくもない。しかし駄目な人間だと認めて欲しいという気持ちもまたある。

 最近タクヤが考えることは誰もが認める権威のある人(そんな人に心当たりはなかったが想像上には存在する)からこう言い渡されることだ。

『君は人間的には悪くない人間だ。でも社会的には駄目人間だね。おっと、気を落さないでくれ。何もかもが駄目ってわけじゃない。ただ社会的有用性という意味においては劣等というわけだ。悪いのは君じゃない。君だって進んで駄目人間になりたかったわけじゃない。できることなら最高の人間になりたかったはずだ。でもこればっかりは巡り合わせだからしょうがない。世間では誰にでも無限の可能性があって、努力すれば何にでもなれるなんて嘘を吐くけれど、それを言う本人がどれだけ努力しても100メートルを9秒で走ることはできないし、永久機関を作って人類のエネルギー問題を解決することもできない。もって生まれた才能が誰にでもあるのさ。だけど連中は才能というものを認めても、努力すればそれなりにできるようになるなんて苦しい言い訳を続ける。だけど高い才能があるなら低い才能もあるわけで、人は才能以上の事はできない。世の中には100メートルを100秒で走る才能もあれば、エネルギーを無限に消費するだけの才能もある。それと同じで社会を良くする才能もあれば、駄目にする才能もある。君には社会を駄目にする才能があるようだ。だから社会へ出るのは止めてくれ。これはもう社会貢献だよ』

 世界が自分の事を駄目な人間だと認めてくれて、何の役割も持たないでいることが許されている世界。むしろそんな世界でならタクヤは100メートルを9秒で走り、人類史上誰も成し遂げられなかった大発明もできるような気がした。

 しかしこの世は誰でも努力すれば人並みの人間になれるとされているので普通になれないのは努力していない、さぼっていることの証明にされてしまう。こんなに苦しいことはない。翼もないのに崖から飛べと背中を押されたり、エラがないのに海に潜れと急かされているようなものだ。

 しかしタクヤはでもでもない。にでもならないかぎり生きていられるのは地面に落ちるか息が続く間だけだ。

 どこでならうまくやれるのか。陸ならきっと大丈夫だ。しかし、空も海も観念的な物ではっきりとした姿は持っていない。そこへ急きたてる相手もいない。でも確かにそれは存在していて幽霊よりも確かな存在感でタクヤを急きたててくる。

 あまりにつらい方へ考えが進んでしまったので、今度は現実世界における陸とは何かと考えてみた。しかし、それに結びつく物は何もなかった。

 やっぱりこの世は最悪だ。

2 身近な別世界


 講義が終わるとタクヤは誰とも言葉を交わさずに大学を出た。

 駅に着くとちょうど電車が来た。昼間の電車は人が少なく、がらんとしている。タクヤが席に座ると電車が走り始めた。

 カタンコトンと体を揺られていると河川敷が見えてきた。大きい川なので河川敷も広い。河川敷には丈の高い草に埋もれるように湿った木の板やブルーシートでできた屋根がいくつもある。最近はそれが気になってしかたがない。この河川敷が自分の行き着く場所になるだろうとタクヤは予感していた。 電車はすぐに川を越えて、窓から見えるのは店や家の裏側ばかりになった。

 実はさっき見た河川敷ではなく、もう少し上流にある大きな古い橋へ行こうとタクヤは考えていた。その橋の下なら、近くを電車が通ることもなく、雨や太陽をしのぐことができる。それに店や家は下流に集中しているので人通りは少なく、知り合いに見られることもない。

 タクヤは家に帰るとベッドに倒れこんだ。そうして何もしないうちに時間が経った。何かしなくてはならないと気持ちが焦ったが、そのまま夜になり、何もしないまま夜が過ぎた。

3 暴かれたこの世の真実


 朝起きて下に降りると父がいて、朝ごはんと弁当を作っていた。珍しく早起きしたタクヤを見て「お」と声を出す。

 タクヤは父の脇でパンをトースターに入れた。二人とも何も話さなかった。息が詰まりそうな気まずい雰囲気が続いた。

 結局、父が家を出るまで何も話さなかった。

「父さん、もう仕事に行った?」

 父が家を出ると母が起きてきてタクヤに訊いた。

「行ったよ」

 タクヤが答えると母の関心はすぐにタクヤに移った。

「大学は?」
「休み」
「休んでばかりね」
「講義なんてもうほとんどないよ」
「卒業してもそんなんじゃ嫌だからね」
 タクヤは逃げるように部屋のベッドに倒れこんだ。あっという間に昼になる。それだけで嫌な気分になった。
 見果てぬ冷たい砂漠にただ一人、何も持たされずに立たされている気分がする。棒を立てれば倒れてしまい、種を蒔けばその場で凍ってしまう不毛の大地。水のない乾いた場所。それでいて水の中にいるような息苦しさがある。

 若さには無限の可能性があるなんて真っ赤な嘘で、その人が持つ資質、才能、環境で可能性は限られている。努力が足りないなんて言葉は努力している人をしているとさえ思った。いや、この世の誰もが自分の資質、才能、環境で精一杯努力している。社会はその結果しか見ない。成功すれば努力のおかげ、失敗すれば努力が足りなかったとされる。 この考え方には根本的な間違いがある。誰もが平等だということだ。

 生まれた時点で体重の差があり、病院の差があり、健康の差がある。赤ちゃんは裸で生まれてこない。見えない産着に包まれて生まれてくる。生まれてからも親の差があり、環境の差があり、運というものまで絡んでくる。

 この世の平等思想は出発点で誰もが同じスタートラインで始まることを根拠にしていて、なおかつ同じコースを走ることが想定されている。でも実際にそんなことはなくてリムジンの厚いシートに座りながら真っ平らな道を走り抜ける人もいれば、両足を切り落とされた上に背中に鉛を背負わせられて坂道を這わなければならない人もいる。

 一番腹が立つのは歩く歩道を走っている人だ。リムジンに乗っている人はかえって自分の恵まれた環境を自覚しているが、こういう人は『俺は努力したからここまで走ることができた』という自尊心を持っている。それだけならまだ良いが、こういう人はたいてい他の人にも自分と同じだけの距離を走らせようとする。できないのは全力を出していないからだと非難する。

 彼が努力したというのは真実だろう。しかしそれは片手落ちの真実で、足元が歩く歩道だったからこそ彼はそこまで走ることができたのだ。努力したから成功したというのはでしかない。それよりは努力では絶対に手に入らない運や才能を認めることによってこそ、成功の価値が出てくる。

 タクヤはどれだけ鍛錬しても100メートルを9秒で走れない。だからこそ100メートル9秒で走ることは素晴らしい。これが100メートル100秒なら話にもならない。

 この世で起こるあらゆる出来事の成否は運と才能に左右される。いや、才能も自分で選べないから究極的には運の一点に集約される。

 正直なところ、他の誰かがタクヤと同じ人生を送っていれば、ここまで生きてこられなかっただろう。タクヤは他人の五倍はがんばっている。もしこの世の努力が全て報われるなら、今頃タクヤは世界総理大臣になっていなければおかしい。

 全ては努力×運のかけ算で成り立っている。これは努力すればなんとかなるという意味ではなく、運が0ならどれだけがんばっても0ということだ。

 運の数値1を人並みとするなら、運の数値が0・5なら人の二倍努力してやっと人並み。しかし体は一人に一つ、人の倍努力することなど不可能だ。

 タクヤは自分の運が0だとは思わないが、0・000……と0がいくつか続いた後にやっと6がつくぐらいの運しかないだろう。人並みになるには生身で空を飛ぶぐらいの努力をしなければならない。つまり不可能ということだ。

 これ以上考えは広がらないので、ここがゴール。この世の真実だ。どこにも行くことはできない。まぶたも気持ちも重くなったのでタクヤはもう一度眠ることにした。4 幸運の誤謬 父が帰ってくると一緒に夕飯を食べた。できれば一緒に食べたくないが、外で食べる金もなければ気力もない。早く食べて部屋に戻ろうと考えていた。

 タクヤは飲み込むように夕飯を食べて、まだ熱いお茶を吹いて冷ましていた。両親はまだ食べている最中だったが突然食卓に張り詰めたような静けさが広がる。背中に嫌な汗をかいた。

 ほどなく父が口を開いた。

「就職は決まったか?」

「ううん、まだ」とタクヤは答えた。

「この時期に決まらないなんてこともあるんだな。選り好みしていたら入れるところも入れないぞ」

「うん」

「真剣にやっているのか?」

「やってる」

「不況だなんだといっても全員が駄目ってわけじゃない。ほとんどの人は職を見つけて卒業するんだから、お前だってどこかに入れるはずだ」

 まだ熱いお茶を一気に飲むとのどが焼けた。タクヤは席を立った。 タクヤは部屋に戻ると運が良い人の特徴をネットで調べた。

 いつも笑顔の人、積極的な人。どのサイトも同じようなことが書いてある。

 馬鹿かとタクヤは心の中で叫んだ。金持ちが大きな家に住んでいるから、大きな家に住めば金持ちになるということぐらいおかしな話だ。普通の人が同じことをすれば破産するだけだし、そもそも大きな家を建てることすらできない。金持ちが大きな家に住んでいるのは金を持っているからで、運の良い人がいつも笑顔で積極的なのも運がいいからだ。やることなすことうまくいけば誰だってそうなる。

 玄関の郵便受けがカタンと鳴った。タクヤが玄関へ行くと茶封筒が一つ郵便受けに挟まっていた。封筒はタクヤ宛てだ。差出人の会社をタクヤは憶えていた。

 駅裏にある小さなビルの四階。従業員は七人。面接に行った時は三人しか姿が見えなかった。面接を受けたのはタクヤ一人だけで社長が直々に出てきた。仕切りを立てただけの応接間で低いテーブル越しに対面した。社長は目が鋭くて、顔には巻き毛のヒゲがびっしりと生えていた。見た目は怖かったが優しい人だった。面接が終わるとお互い冷めたお茶を一気に飲み干し、社長が「ぬるいな」と言って笑った。

 タクヤは部屋に戻ると封筒を手で破り中の紙を広げた。

「誰から?」

 部屋の外で母の声がした。

「受かったみたい」とタクヤは言った。

「何?」

「よく分からないけれど受かったみたい」

「どういうこと?」

 母が部屋のドアを開けて入ってきた。タクヤは持っていた紙を母に渡すと、一度下まで目を通してからまた上に目を戻した。

「ふ~ん、良かったね」と母は採用通知を返した。

 タクヤはそれを封筒に戻すと机の引き出しに入れたが、やっぱりまた机から出して机の上に広げた。

5 ああ、素晴らしき世界

 まぶたが意志を持って開いているようだった。息を吸うと清らかな水が手足に満ちていくようで自然と体を動かしたくなった。

 下へ降りると父が朝ごはんと自分の弁当を作っていた。「おはよう」とタクヤは父に声をかけると、パンをトースターに入れた。それから父とは何も話さなかったが、そこにいるだけでしい幸せを感じた。

 世界は素晴らしい。この世は誰もが幸せになるために生まれてきた。幸せはいつもすぐそこにある。心を開けばその瞬間に幸せになれるのだ。

 父は朝食も着替えも済ませると、家を出るまでニュースを見ていた。二人は何も話さなかったが、父は出際に「学生は気安いな」と言った。

 タクヤは部屋に戻ると服に着替えた。それだけで体の底から幸せを感じた。何故この世はこんなにも素晴らしいのか、今この瞬間を切り取って永遠に時を止めてしまいたかった。

 世界は変わった。空の限りない青さを感じ、太陽から降り注ぐ光線がはっきりと見えた。それら全てが相互に影響し合って世界を幸せにしている。この素晴らしい世界は今までどこに隠れていたのか。いや、世界はずっとここにあった。タクヤは自分から目と耳を閉じていただけだ。

 大学へ行くとワタナベ君が前を歩いていた。彼とは仲が良かったが、最近はタクヤから彼を避けていたし、彼もタクヤを避けていたので、ほとんど話すことはなかった。

 タクヤは足早に近付き、彼の丸くなった背中を叩いた。

「よっ、おはよう!」

 予想外に大きな声が出てタクヤは驚いた。ワタナベ君はもっと驚いていて、目を丸くしていた。

「あ、あぁ。おはよう。ビックリした」

 ワタナベ君の声は小さく、タクヤに届けるのがやっとという感じだった。昨日までのタクヤもこうだったのだろう。

「最近どう?」とタクヤは言った。

「まあまあだよ」

「就職活動とかどうしてる?」

「まあ、やってる」

「僕は内定が出た」

 ワタナベ君が眉を上げた。

「へえ、どこ?」

 タクヤは昨日内定が出た会社の名前を言った。

「やったね。就職活動はまだ続ける?」

「もっといい場所が見つかるかもしれないからね」

「やった方がいいよ。選択肢はたくさんあった方がいいから。それにしても良かった」

「うん。がんばっていれば必ず結果はついてくるよ」

 ワタナベ君はまだ内定を取っていない。彼の様子を見れば聞かなくても分かった。タクヤは彼をはげますためにそんなことを言った。彼は誰に向けるでもなく「うん」と曖昧に返事をした。

 家に帰ったタクヤはベッドに横たわると、あの会社で働く自分の姿を想像した。タクヤは慌しい事務所で電話を片手に何かの書類を見ている。初めは頼りなくぎこちないが仕事を覚えていくうちに有能な働き手となり会社を引っ張っていく。

 それで大きな自社ビルを建てて、その頃には社長のヒゲも白くなっていて、壁に貼られた値札に『時価』と書いてある寿司屋で社長と酒でも飲みながら『この会社がここまで大きくなれたのは君のおかげだ』なんて言われる。

 そんなことを考えていたのにタクヤは別の会社に電話をかけていた。一度落ちた会社だがまだ募集していないか訊いた。すると話を聞いてもいいということになり、いきなり面接の日取りが決まった。

 二日後に面接だった。日常業務の合間に面接の時間を作ったという感じで慌しかったが反応は悪くなかった。その結果が出る前にまた別の会社の面接を受けた。 この世は門を叩けば開かれる。世界は正面からぶつかっていけば優しく受け止めてくれるのだ。世界にはバラ色の絨毯が敷かれている。

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