幽霊になった私 試し読み

 

私とタニス 1

私がまだ小さい頃、両親はいつもケンカをしていました。私は二人の仲を取り持とうと、時には直接的に、時には間接的に陰謀めいた事もしましたが、二人はいつも私の試みをふいにするか、台無しにしてしまうのでした。そういうことが何度も続くと私はこの家にいるのが嫌になりました。

 ある日、学校の帰り道にある橋のたもとにダンボールが置かれていました。中を覗くと灰色の毛玉が入っていました。でもただの毛玉ではありません。もっとよく覗いてみると体を丸めた猫でした。

 猫は私に気付くと顔を上げて「ニャーン」と鳴くと、ダンボールのふちに前足をかけて何度も後ろ足をぴょこぴょこと蹴りました。その必死な姿を見ていると、この子を絶対ここに置いて行ってはいけないという気持ちが湧き起こって、私はその子を胸に抱いて家に帰りました。猫は私の胸の中に入るとすぐに目を閉じて寝息を立てました。まるで生まれた時から私の猫みたいです。

 家に帰った私は猫をクローゼットに入れて、お母さんに猫を飼いたくないか探りを入れました。しかし、私が「猫を飼いたくない?」と言った途端にお母さんの血がさあっと引いて部屋ごと寒くなりました。

 お母さんは物凄い勢いで私に怒鳴りました。私は体を小さく丸めて泣きました。後から後から涙があふれ出てきて、ずっと手で目を押さえていたのですが、頭上からお母さんの激しい声が降り続きました。

 お母さんはひとしきり感情を吐き出すと、今度は優しい声で「アキ、どうして猫を飼いたいなんて言ったの?」と訊いてきます。もしあの子の事を話すとお母さんはきっと捨ててきなさいと言うに違いありません。私は黙っていました。するとお母さんはまた激しい声になりました。

 お母さんは私を怒鳴り続けると死んだようにソファーで横になったので私は自分の部屋に逃げました。

 音を立てないようにクローゼットを開けると猫は静かに丸まっていましたが、私に気付くと飛ぶように駆け寄ってきたので私はその子を胸に抱いて頭を撫でてあげました。すると猫は体中を震わせてプルルルと気持ち良さそうな声を出しました。

 私はその子にアズキという名前を付けました。アズキはプルルルと喉を鳴らして微笑みました。私もその顔を見て気持ち良くなりました。

「私達ずっと一緒だよね?」

 私が心の中で問いかけると、アズキは「ニャオ」と答えました。その瞬間私とアズキは秘密の友達になりました。

私とタニス 2


 次の日、私が学校の図書室で猫の飼い方の本を読んでいるとナツミちゃんが「アキちゃん、猫飼うの?」と訊いてきました。ナツミちゃんは私の友達で幼稚園からずっと一緒です。私達はなっちゃん、アキちゃんと呼び合っていました。絶対に信頼できる女の子です。私は昨日アズキを拾ってお母さんに内緒で飼っている事を話しました。すると彼女はとてもうらやましがりました。

「家に来たらこっそりみせてあげる」と私は言いました。

 私とアズキとなっちゃんは三人でよく遊びました。家の中では音を立てないようにしました。外へ出た事もありました。アズキは外の世界に興味津々で、すぐにどこかへ姿を消してしまうのですが、私が「アズキ~」と呼ぶと必ずどこからか姿を現して飛ぶように私の足元に戻ってきました。

 私とアズキの関係は一ヶ月続きました。

 ある日、家に帰ってくるとお母さんが優しい顔で私を待っていたので嫌な予感がしました。こういう顔をしている時は激しいケンカの前触れなのです。私は顔を合わせないように、部屋へ逃げようとするとお母さんが言いました。

「アキ、お母さんに何か隠していない?」

 私は首を横に振りました。

「怒らないから言ってごらんなさい」

 私はぱっと顔を上げました。

 お母さんはきっとアズキの事を知っている。でも怒っていない。それどころか嬉しそうに微笑んでいます。私は全てが許されているのだと勘違いして、アズキの事を洗いざらい白状しました。

「他にない? 良い機会だからお母さんに秘密にしている事を全部話してみて」

 私は少し考えてみましたが、何も思い浮かびません。

「何も。これで全部」と私は答えました。

 その瞬間、お母さんの体から一斉に血の気が引いて氷に包まれたように冷たくなりました。

「何でお母さんに黙ってそんなことするの!」

 私はひどく怒られました。その時のお母さんの声は家をバラバラにしてしまいそうなほど激しい物で、私はとっても長く怒鳴られた後、泣きながらお母さんを自分の部屋に連れていくことになりました。

 どこかに隠れていて。そう願いましたが、私がクローゼットを開けるとアズキは私の足元へ飛んできました。でも私は後ろめたい気持ちがあったので、いつものように撫でてあげることができませんでした。アズキは何度も私の足首にひたいを擦り付けては、不思議そうな顔で私を見上げて「ニャーン」と鳴きました。

 お母さんは言いました。

「元のところに戻してきなさい」

 私は必死にアズキをこの家に置いてくれるように頼みました。もうわがままは言わない。勉強もする。お母さんの代わりに毎日晩ご飯を作ってもいい、一生のお願いだとか、色々言いましたが駄目でした。私はアズキと一緒に外へ出され、アズキを元の場所に戻すまで帰ってこなくていいと言われました。

 私はアズキを拾った橋まで行きました。アズキが入っていたダンボールはボロボロになっていましたが、まだ同じ場所にあります。そんな場所にアズキを戻せなかったので、私は優しい人にアズキを拾ってもらうことにしました。

 でも、こんな時に限って誰も橋を通りません。さらにその上、雨まで降ってきました。

 私はアズキと橋の下へ逃げました。ゴミがいっぱいで変な臭いがします。こんなところにアズキを置いても、きっと誰も来ないでしょう。

(どうしよう?)

 私が心の中でつぶやくと、アズキが「ニャーン」と答えました。

「どうしたらいいと思う?」

 言葉に出して問いかけてもアズキはやっぱり「ニャーン」としか答えません。

 私は泣きそうになりました。アズキは私の事を分かってくれるのに、私はアズキの事が分かってあげられない。それが悲しかったのです。

 まだきれいなダンボールを見つけると、私はそこにアズキを入れました。アズキは慌てて「ニャーン、ニャーン」と鳴きながら私にすがりつこうとしましたが、初めて会った時のようにダンボールのふちを乗り越えられませんでした。

 私はダンボールの中に手を伸ばして、アズキのおでこやアゴの下を指で撫でました。アズキも私の手をおでこで撫で返してきます。そうやってお互いに撫で合っているとアズキは眠くなってきたのか、ダンボールの中で丸くなって目をつぶりました。

「ごめんね」

 私は音を立てないようにその場を離れて、橋の下を出る前に一度だけ振り返りました。するとアズキはダンボールから出ていて、びっくりしたような大きな丸い目で私を見ていました。

「ごめん!」

 私はそう叫ぶと雨の中に飛び出して家まで走りました。アズキが追いかけてきていたらどうしようと何度も考えましたが一度も振り返りませんでした。

 私は玄関の前まで帰ってくるとやっと振り返りました。そこにアズキはいません。気が抜けたような寂しさと、ほんの少しの安堵感。

 私はアズキを捨てて安心した自分が嫌になりました。

私とタニス 3


 夕方から降り始めた雨は勢いを増して、家の屋根や窓を激しく叩いています。私は橋の下に置き去りにしたアズキの事を考えていました。あそこは大雨が降ると水に浸かってしまうのです。

 もしアズキが溺れていたらどうしよう。私は音を立てないように服を着替えると家を出ました。

 夜の町はとても恐かった事を憶えています。でも私はアズキを助けなければいけないと、気持ちを奮い立たせて夜の町を走りました。

 私が橋のたもとまで行くと、夕方から降った大雨で川の水は道に迫るほど水位が上がっていました。橋の下なんてとっくの昔に水の底です。私はその場に座り込みました。世界中の水が私の目を通して流れているのではないかと思うぐらい泣きました。

 どれほど泣いていたのか分からないぐらい泣いていると肩を叩かれました。私はお母さんだと思って、慌てて顔を上げると警察の人でした。

 これはきっと運命に違いない。神様が私に罪を償わせるために警察の人をここへ導いたのだと私は確信しました。

「おまわりさん、私を逮捕してください。とってもひどい事をしました」

 私はこの先の人生を一生牢屋で暮らす事を想像してまた泣きました。警察の人が私の名前やどこから来たのか尋ねてきましたが、大きな感情が体を突き上げていたので、私はただ泣くばかりで何も答えられませんでした。

 私はおまわりさんに抱き上げられてパトカーに乗せられると警察署に行きました。

 警察署のソファーに座らされても私はまだ泣いていて、一生このまま泣き続けるのだろうと思うぐらい泣き続けました。でも、どんなものでも終わりがあるもので、いつしか私は泣きやみました。きっと一生分の涙が出たに違いない。そう思ったものです。一生分泣いた私は机の前にあったオレンジジュースを飲みました。それから私がした事を警察の人に話しましたが、警察の人は私を励ますように笑っていて、とても逮捕されるような雰囲気ではありません。

 名前や住所を教えると警察の人が一度部屋を出て、しばらくするとお父さんが迎えに来ました。私は牢屋に入ることもなくお父さんの車に乗って、家に帰りました。

 家に帰るとお母さんはパジャマ姿の恰好のままソファーで死んだように横になっていましたが、私を見るなり飛ぶように立ち上がって、私の顔に平手打ちをしました。私は目の前が真っ暗になりました。母さんはまた倒れるようにソファーへ沈み込みました。

 顔半分がじんじん痺れていましたが私は一滴も涙を流しませんでした。やっぱり一生分の涙を使い切ったのでしょう。お父さんがパジャマに着替えてもう寝なさいと言うので私はその通りにしました。

 朝になると昨日の雨が嘘みたいに晴れました。私は朝ごはんを食べて服に着替えると、ランドセルを背負って橋の下へ行きました。雲ひとつ無い晴れた空と同じように、昨日水であふれていたのが嘘みたいに水が引いていました。

 私はアズキを探しました。どこも水に流されて猫どころかゴミ一つ見つかりません。

 私はその場にしゃがみこんで泣きそうになりました。昨日までの私ならきっと川のように泣いていたでしょう。でもやっぱり涙は出てきません。

 涙を出さずに泣いていた私の耳に川の音が入ってきました。川にはダンボールと同じ大きさの石が頭を出しています。私はわけもなくその石の下にアズキがいると感じました。

 私はランドセルを置いて、靴と靴下を脱いで川に入りました。そして、足首に水の冷たさを感じた瞬間、視界が真っ暗になり体中が暖かさに包まれました。何だか変だな、と目を開くと白い天井が見えました。すぐそばにお父さんとお母さんが不安そうな顔で立っています。二人の後ろに白衣を着た女の人が通ったので病院だと分かりました。

 後で聞かされた話によると、私は川で溺れていたところを助けられたそうです。水に足を着けた瞬間、ここへ来たのだから、とっても不思議でした。

 ランドセルは家に戻っていましたが、学校はしばらく休んでいいと両親は言いました。それと川で溺れていた事は誰にも言ってはいけないと釘を刺されました。

 私とタニス 4


 次の日は、お母さんがつきっきりで私のそばにいました。近所の噂では、私が自分から川に落ちたということになっているそうです。

「絶対にそうじゃないでしょ?」

 お母さんは何度も訊いてきました。私はその度に「そうじゃない」とか「違う」とか答えました。そう答えて欲しそうだったからです。でも私はどうして川に入ったのか訊いてくれるのを待っていました。もし訊かれたら私はアズキの話をするつもりでしたが、お母さんは理由までは求めていませんでした。

 お母さんが部屋から出ると私は泣きました。もう涙なんて出ないと思っていたので、自分でも驚きました。寂しい気持ちになってアズキを抱きしめたくなりましたが、アズキはもういません。胸一杯に空洞が広がって、また涙が出ました。

 いつの間にか眠っていた私は母さんが呼ぶ声で目が覚めました。夕食の時間です。私が部屋を出ないでいるとお父さんが部屋に来たので「いらない」と答えました。

 お父さんが部屋のドアを開けたまま食卓へ戻ると夕食を食べる音が聞こえてきました。私は音を出さないようにベッドから出ると部屋のドアを閉めました。

 お母さんはお風呂に入る前に私の部屋に来て「ラップをしてあるから食べたい時に食べなさい」と言いましたが私はそれにも答えませんでした。

 次の日も、また次の日も、私は何も食べませんでした。このまま死んでアズキにごめんなさいと謝って、また一緒に暮らす事を考えていたのです。さらに次の日はお母さんが無理矢理私に食べさせましたが全部吐いてしまいました。

 次の日の夜、遠くに住んでいるおばあちゃんが家に来ました。おばあちゃんは私の部屋に来ましたが、無理に食べさせることはしませんでした。私はそれが嬉しくて自然と笑みが浮かびました。

 さらに次の日、朝早く起きた私は鏡で自分の顔を見ました。私は肉が落ちた顔を見て、もしかしたら今日死ぬかもしれないと思うと、顔が痛くなるぐらいの笑顔になりました。

 その日、お父さんとお母さんはどこかへ出かけました。おばあちゃんは私の様子を見に来ると「なにか欲しいものはない?」と訊いてきたので「何もいらない」と答えると、おばあちゃんは「そう」とだけ言って居間へ行きました。私はそっけなく扱ってくれたのが嬉しくてほんの少しだけ涙が出ました。

 昼にまたおばあちゃんが来て「私は食べるけどアキちゃんは何か食べたい物はある?」と訊いてきたので「何もいらない」と私は答えました。おばあちゃんはやっぱり私を放っておいてくれました。おばあちゃんが何かを食べている気配を感じると、胸がじーんと痺れてくすぐったいような気持ちになりました。

 両親が帰って来ました。たくさん買い物をしたようで車と家の間を何度も行き来しました。それからお母さんは今まで聞いた事がない優しい声で私を呼びました。

 部屋を出た時から浮き足立った気配を感じていました。私が居間に入ると、おばあちゃんが何かを抱いている背中が見えました。お母さんはわざと作った笑顔をしていて、お父さんは不安な顔をしています。おばあちゃんが振り返ると、一匹の猫が腕に抱かれていました。灰色の毛に黒のマーブル模様のある猫です。

「アキちゃん、猫、可愛いねえ、何て名前にする?」

 おばあちゃんの声を全部聞く前に、私は部屋に駆け込みました。体中が燃えるように熱くなって、私の心を猫で釣ろうとした両親にも、おばあちゃんにも、そしてまだ死なない私に怒っていました。

 きっと明日の太陽は見ないと決めて私はベッドに入りました。目をつぶっていると体が浮き上がるような感覚がありました。天国からのお迎えだろうと目を開けると、不思議な感覚は消えて私はベッドに戻っていました。目を開けていると天国にはいけないんだ。そう考えて強く目をつぶりましたが、体が浮き上がるたびに目を開いてしまったので私は何度もベッドに戻ってきました。そうこうするうちに夜の十二時が過ぎてしまいます。

 今日も死ねないと私は思いました。もしかすると永遠に死ぬ事ができないのではと考えると恐くなりました。

 ベッドで震えているうちに朝が来ました。待っているだけでは駄目だ。川に身を投げて死のう。私がドアを開けると、何かが私の足元を通り抜けて部屋に入ってきました。その影は部屋の真ん中で立ち止まると、私に振り向いて「ニャー」と鳴きました。昨日の猫です。

 私は窓を開くと猫を屋根に下ろして窓を閉めました。それから服を着替えて外へ出ようとすると、両親が起き出す気配がしたので私はまたドアのそばで息を潜めました。

 お父さんが家を出て、次にお母さんが出ます。おばあちゃんはまだ家にいますが、なんとかごまかせるだろうとドアノブに手をかけると、お母さんが慌てて家に帰ってくる音がしました。

 お母さんは私の部屋に真っ直ぐ向かってきました。私はドアノブをしっかり両手で抑えましたが、ずっと何も食べていなかったので力は入らないし、体は軽いしで、私はドアと一緒に開けられてしまいました。

 お母さんは凄い目をしてドアノブにぶら下がっている私を見ると、私の顔に平手打ちをしました。

「命を粗末にするんじゃないの!」と怒鳴ります。

私はアズキを思い出して涙を流しました。

「ああ、あんなところにいて。どうしよう」

 お母さんは窓の外を見て慌てました。それから「ハシゴ、ハシゴ」と慌てながら物置へ向かいます。

 私も窓の外を見ました。屋根のふちで私がさっき外に出した猫が小さくなって震えています。私はとってもひどいことをしてしまったと気付きました。

「おいで。そっちは危ないからこっちへおいで。お願い。こっちへきて」

 私は猫に声をかけました。その子は一度屋根の下に目を向けると、足を震わせながら私の方へ一歩踏み出し、それからまたもう一歩踏み出すと、何かから逃げるように私の手元へ飛び込んできました。私はその子を胸に抱き上げると「ごめんね、ごめんね」と何度も謝りました。もう涙なんか出ないと思っていたのに、また川のように涙が止まらなくなりました。猫は「ニャーニャー」と鳴いて、私の涙をなめてくれました。

 私はその子と一緒に部屋を出ると冷蔵庫にあった私の夕食を一気に食べました。久しぶりに物を食べたせいか、お腹がチクチク痛みましたが、私は頑張って全部食べました。

 新しい猫は灰色の毛に黒のマーブル模様が入っていました。灰色の部分はアズキと同じ色で、顔も一緒、アズキがおめかしをして帰ってきたみたいです。でも、私はその子にタニスという名前を付けました。アズキはアズキであって、タニスはタニスなのです。アズキの代わりではありません。

 私とタニスは公然の友達になりました。私が学校から帰ってくるとタニスは玄関で待っていて、ドアを開けると私の足元めがけて突進してきます。私達はどこでも一緒で、お風呂やトイレも一緒に入りました。

 タニスが来てから私は生きているのが楽しくなりました。でも、良いことはそれだけではありませんでした。タニスが家に来てからお母さんは優しくなりました。お父さんも早く家に帰ってくるようになって、二人はケンカすることもなく一緒にいても仲良くしています。

 その年は家族全員で北海道へ行きました。本当はハワイの予定でしたがタニスを連れて行けないので、猫と一緒に泊まれる旅館がある北海道へ行くことにしたのです。

 私とタニスは永遠の友達。眠る時も一緒。タニスが来てから全てがうまくいくようになりました。

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